この辺りも印象に残りました。
P141
はせくら ・・・具体的な話として、介護の立場にある人たちの、心の在り方についてはどうでしょうか?
矢作 一つ実演しましょう。
(同席の編集者への語りかけ)
この台の上に横になってみてください。
何通りかやり方はあるのですが、このデモが一番簡単なのです。
絶対に私に協力しないで、そのまま体を投げ出していてくださいね。
(編集者を起こす。なんとか起き上がれた感じ)
この体勢ですと、人の体ってけっこう重たいんですよ。横になると、どんな人でも重心が分散するので。
では、もう一度横になってもらって、再度私が体を起こしますね。
(今度は簡単に起き上がる)
はせくら 軽々と起き上がりましたね。
矢作 「あること」を思ったんです。そうすると、勝手に体が持ち上がってしまうんです。
はせくら 「あること」というのは、施術者である先生が思ったということですか?
矢作 そうです。言葉にも出していないので、相手には知りようがないんですが。
実は、「ありがとう」と思ったんです。「ありがとう」と思うと、意識では抗っていたとしても、体が同調して動いてしまうのです。
別のこと、例えば「こんちきしょう」と思うと重たいままです。
「ありがとうございます」なら大丈夫。これだけです。口に出せば、もっと強くなりますよ。
つまり、イヤイヤやっている人は、腰を痛めてしまう。感謝を込めている人は楽になる。
はせくら 介護される側の人は、思わなくていいんですか?
矢作 まったく関係ないです。意識がない方でも大丈夫です。
はせくら される側が、「こんちくしょう」と「ありがとう」と思うことで、それぞれに違いが出るのかを見てみたいです。
矢作 では、もう一度やってみましょう。まず寝ている側が、「こんちくしょう」と思っていてください。
私はずっと、「ありがとう」と思って起こしますから。
(編集者を起こす)
今度は、「ありがとう」と思ってください。
(再度、編集者を起こす)
編集者 今が一番、軽々と起こしていただいた感覚です。
矢作 相乗効果というのがあるようですね。すごく実用的ですよね。
でも、「こんちくしょう」のときも、最初に私が何も思わずに起こしたときよりは軽かったでしょう?
やはり、愛のほうが強いんです。感謝、愛、調和、呼び方は何でもいいんですが、ファイン(精微)なエネルギーのほうが絶対に勝ります。
P235
はせくら 古事記の最初の記述では、「天地初發之時(あめつち はじめて ひらけしとき)、高天原成神名(たかあまはらに なりませる かみのみな)」を、天之御中主神としています。
つまり、最初に天地という大宇宙があって、その大宇宙から意識が生まれ、それを天のミナカと呼んだということです。
その中心となる主の、神降ってきた姿が我なのです。
最初から宇宙があって、ずっとなくなっていませんから、その宇宙を命と置き換えたとき、過去から今のこの瞬間まで、命はずっと生き通しで、私たちの中にあるということになります。
だから、死ねないのです。
・・・
死は切り離された一部ではなく、この大宇宙の自然な営みの循環の中にある様態の一つです。
その大いなる命の輪の中にある自己を思うと、また変わってくると思います。
矢作 ・・・
生きるという舞台から落っこちまいと頑張る人がほとんどですが、本当は、フィールドは無限にあるのです。落ちようとしても、それはできない。
それが分かれば、様々な活動ができるはずですね。
・・・
要は、自分の外に見ようとしたら見えません。
自分を通す、それを内観という人もいるかもしれませんが、素直な人なら、直感で分かるのですね。外に視点はない、自分の中ですべてが繋がっている……。
・・・
はせくら 思いの数だけ世界はありますし、思いが変わった瞬間、また世界は変わります。
そのぐらい可変性のあるものだという認識がほしいですね。
それを、単なる精神論や、いわゆるスピリチュアルのお話で、現実逃避の道具としてしまうのはあまりにもったいないことです。
本当は、そこにただ横たわっている真理がある、そのことに気づくかどうかが大切なのです。