「東京の台所」「男と女の台所」が面白かったので、大平一枝さんの他の著書も読みました。この本もよかったです。
P153
家事はだれのため、なんのためにするんだろう。家族や自分のため。みんなが心地よく暮らすため。だいたいそんな答に落ち着くと思う。
では、その「心地よさ」とは、なんだろう?
耳あたりのいい言葉だが、このひとことのために、意外と日々大きな努力が必要だったりはしまいか。
家族みんなが心地よく暮らすには、きれいに片付いた部屋で気持ちのゆき届いた食事を作り、ゆったり過ごす。文字にすると何行かで終わるが、家事という作業を実際にすると、「心地よい空間」に整えるためにけっこうな時間と手間が必要だ。
私は、ときどき思う。―「心地よさ」が負担になってはいけない。
自分の思う「心地よさ」がゴールであって、それはだれかが〝こんな感じ〟と決めるものではない。
だが私たちは、ふだん目にするさまざまな情報を通して「心地よさ」のゴールを間違って設定しがちだ。だれかの素敵な暮らし。あの人の居心地の良い空間。このソファとこの椅子の組み合わせ。それらは「心地よさ」の一つの提案であって、すべてではない。
こう気づいたのは、じつは最近のことだ。私はずいぶん長い間、この、自分ではないだれかの決めた「心地よさ」の提案や定義に振り回されてきた。
しかし、毎日の家事は待ってくれないどころか、次々小波のように押し寄せてくるし、ふたりの子どもが幼い頃はそれこそ毎日がへとへとで、いったい自分はいつになったらゆっくり夜のニュースを見られるのだろうかと、他愛もないことで立ちすくんだ。
共働きで夫も同じ環境なのに、なぜ私だけと恨んだこともあるし、夜泣きをする娘に閉口して家族に当たり散らしたこともある。
そういうたくさんの失敗の日々を経て、心地よいというのは、自分が笑顔でいればいいんだということに気づいた。夕食がインスタントラーメンでも、部屋が多少散らかっていても、取り込んだ洗濯物が山と積まれていたとしても、自分が笑っていればだいたい家族は落ち着く。家族の間に丸く穏やかな空気が流れる。それが我が家の「心地よい」ってことだ。
人生の謎は、生活の折り折りのふとした瞬間に、ふと解けたりする。あのときわかっていたら、イライラせずにすんだのに、もっと子育てを楽しめたのに、と思うが、そう気づいた頃には、子どもはその手から離れているのかもしれない。
だからおもしろいのだし、だからたまらなくせつないのである。