オノ・ヨーコさん

ただの私 (講談社文庫)

 私が生まれた頃に書かれた本でした。

 生命力というのか、愛の大きさというのか、なにか大きなものを感じました。

 また印象に残ったところを書きとめておきます。

 

P20

 ・・・私がロサンゼルスにいるとき、急に思い立って、ニューヨークにいるアシスタントに電話を入れて、「今日、すぐD荘(注・ダコタ・ハウス)に電話して、空いているアパートがあるかどうか調べてちょうだい」と頼んだ。

 D荘というのは、セントラルパークが眼下に見渡せるところに建っている由緒ある建物であって、条例によって勝手に改築できないことになっている。

 それくらいの建物だから、アシスタントの返事も、「D荘には、大勢の人たちが入りたがっているから、三年くらいウェイティング・リストに入って待たなくちゃならないんじゃないか」ということだった。私は「でも、とにかく聞くだけ聞いてみてちょうだい」と頼んだ。

 するとニ十分くらいして電話がかかってきて、「驚いた」とアシスタントが興奮している。

「どうして?」

「いま電話したら、D荘のあるアパートが売りに出るので、明日、新聞に広告を載せることになっている」というのである。広告に出されたら間に合わなくなってしまうので、すぐにそのアパートをおさえてもらうことにしたのだった。

 こういう、テレパシー的経験は誰でも一度や二度は持っていることだと思うが、それがだんだん私の生活において数を増してきたような気がする。

 ・・・

 私はこのところずっと草と会話している。

 台所の窓辺に鉢をいくつか置いておく。その鉢に、私が食べた植物のタネをまく。タネが芽を吹き、伸びてゆく。

 私は毎日それを眺める。植物のほうも私を見ている。私が何を考えているかということが、ちゃんとわかっている。だから、私が悲しいときには、植物もうなだれてしまうし、悲しいことが長くつづくと、少し黄色くなったり、枯れてしまったりする。

 私は草に話しかける。「今日はとってもイライラしていてゴメンなさい」とか、「いま、とても疲れているの」とか。

 私が元気のいいときは、少しくらい水をやらなくても枯れたりしないのである。

 人間と植物の間にこうした関係が成り立つことは、世界中で色々な科学者が科学的に証明し出している。草や木と話し合いをしている人たちが、最近は非常に多いのだ。

 ・・・

 私自身、以前からコンサートの前には必ず一週間断食してきた。体のなかのものを全部吐き出してしまうと、神経が全然ちがってくる。それまでとはまったくちがうバイブレーションが出てくるのだ。

 コンサートを前にして私が準備することは、自分のバイブレーションを最高のものにすること。発声とか楽器の練習は二次的なことだ。だいたい、芸を「見せる」ために舞台に立つなどというのは最低だと思う。コンサートはバイブレーションの交換だと思う。

 そして、その交換から出てきた美しいバイブレーションが、今度はそのコンサート・ホールから世界に対して、一つのバイブレーションとして送られる。

 人間と人間のコミュニケーションを復活させること、これが私が一番強く念願していることだ。

 ・・・

 もう一度本来の自分の身体に意識をもどしてみないか。鏡の前で裸の自分を見てみるといい。なんて美しい動物だ、と思うだろう。身体の隅々まで神経が行きとどき、細胞の一つ一つが生きている。

 そして電波なんぞよりよほど過敏なバイブレーションを、その身体から世界に対して絶えず発散しているし、また絶えず吸収している。・・・人間とは驚異である。