世界はフムフムで満ちている

世界はフムフムで満ちている 達人観察図鑑

 いろんな職業の人の、印象的なひとことが集められた本。

 すごーく面白かったです。

 

P18 映画の背景画家

 

「マジックアワーの空を描いてくれ」

という三谷幸喜の注文は、

それでもマシなほうだった。

「これから殺人事件が起こる、

という空を描いてくれ」

市川崑はそう言った。

「夢のなかみたいな夕焼けを描いてくれ」

と、これは黒澤明

映画セットの背景の大きなスクリーンに

エアブラシと絵筆であらゆる種類の空を描く仕事。

「映画監督って変なこと言うから、ほんと困るねぇ。

でも困るほうが燃えるってこともあってねぇ」

と老職人は笑う。

「これから殺人事件が起こる空って、どう描いたんですか」

「写真、見るかい?」

そこに写っていたのは、黒雲が乱れ飛び、

いまにも大粒の雨が落ちてきそうな……

あぁ、まさに風雲急を告げる空。

巨匠・市川崑

「うん、これだ」

と満足げにうなずいたという。

 

P32 画商

 

煙草の箱をトントンと叩いて一本取り出す。

「名画って言われてる絵の、何割がホンモノなんだろうねぇ」

マッチを擦って、炎を掌で囲うようにして、

「贋作と知ってて取引したら犯罪だけど」

くわえ煙草の口で、ことさら不明瞭に言う。

「自分も騙された場合は、仕方がないもんねぇ」

いいなぁ、画商。

この怪しい雰囲気。

煙をすぱぁっと吐いて、

「あのねぇ、僕らが『いいんじゃないですか』って言ったら、

そーゆー意味だからね」

絵を鑑定して、ホンモノだったら

「これはまちがいないですね」と言うらしい。

そうじゃないときは

「いいんじゃないですか」って言うらしい。

家に帰ってシャツを脱ぐと、ほんのり煙草の香。

今日聞いた話自体が、贋作だったりして。

 

P40 木こり

 

斜面を転がったり、チェーンソーで腕を切ったり

わが国の労災発生率は

林業従事者がもっとも高いらしい。

「俺、肉体労働けっこういろいろやってきたけど

林業はハンパねえっす」

三十代で山に転職した男は言った。

「最初の一週間、昼の弁当が半分も食えねえの。

午前中だけで疲れすぎちゃって」

丈夫な体だけが自慢なのに

まったく使い物にならないことに愕然とした。

つれえ、情けねえ、やめてえ、と毎日思った。

「でも俺、無能すぎたから

逆にやめられなかった」

無能すぎるんだけど、

自分しか気づかないレベルなんだけど、

翌週になるとちょっとだけマシになってる。

その翌週はまたすこし進化してる。

数年後、一人前の木こりになっていた。

自分しか気づかないちょっぴりの進化。

あぁ、結局、それなんだなぁ。

 

P44 キャディー

 

どんな一流プレイヤーでも、迷うときあんだよね。

当然、俺たちキャディーに意見を求めてくるわけ。

そんとき

「俺はこう思います」

と言っちゃあ、だめ。

かといって

「あの選手はこうしている」

なんて言い方はもっとまずいわけ。

プロはみんなプライドあっから。

そんでね、俺、すんげえいい言い方を思いついたのよ。

「調子がいいときのあなただったら、こうするでしょうね」

って言うの。

どう、これ。いいっしょ。

選手とキャディーは夫婦みたいなもん。

俺が女だったら、すんげえいい奥さんになれると思うぜ。

 

P124 ドライブインの経営者

 

包丁やフライパンをカタコトいわせて

街道沿いのドライブイン

ハンバーグ定食などをつくっている。

一見、なんの変哲もない料理人なのだが。

葉の揺れ方、雲の流れ方で

地球の機嫌がわかるという。

「そのふしぎな能力は、仕事の役にも立つんですか」

「あんまり」

とはにかんで、少し考えてから続けた。

「道を行く車の、車間距離がバラバラな日は

地球全体が焦っていて、店はヘンな時間に混む。

車間距離が一定の日は、地軸がぼんやりしているから

店はあまり混まないね」

気負いのない顔、嘘をついている気配はない。

そういうこと、もしかして、

人間以外の生き物はみんな知っているのか。

 

P154 法廷画家

 

「なんだか最近ね」

とのんびり言う。

「顔を見たら、有罪か無罪かわかるように

なっちゃいましてね」

え!

画用紙を携えて裁判所に出かけ、被告人の様子を描く。

テレビ局の報道部と契約していて、

世間を騒がせた悪女も政治家も教祖も目撃してきた。

裁判が始まると、傍聴席からは被告人の背中しか見えない。

表情が読み取れるのは、入廷から着席までの十五秒。

全神経を被告人に注ぐ。

その十五秒を何百回も生きるうち、

奇妙な特技が身に付いてしまったのだった……

「画家になりたかったんだけど、

なんだかヘンな画家になっちゃいましてね」