アートに出会うこと

目の見えない白鳥さんとアートを見にいく

 このあたりも印象的でした。

 

P94

「これ、ニューヨークかもしれないね……」

 わたしは反射的に口に出した。作品は、ふたつの高いビルに飛行機が突入していくような構図だった。

「え、もしかして、ツインタワー?」

 ゆみは、間が抜けた声を出した。わたしの脳裏に浮かんでいたのは、二〇〇一年に起こった同時多発テロ9・11」だった。

 ゆみは展覧会パンフレットをさっと取り出し、作品タイトルを確認した。そこには《エリックサティ、香港》(一九七九年)とあった。

「香港みたいだよ」

「なあんだ、香港か!」

「うん、うん」

 わたしたちの間に安堵したような空気が流れた。「昔の香港の空港は着陸するときにはビルの間に飛行機が入っていくみたいだったって聞くよね」「たしかにー」と口々に言い合った。

 ・・・

 ふたつ並んだ高層ビルと飛行機を見て、反射的に「9・11」を思い浮かべたのは、おそらく偶然ではない。二〇〇一年九月一一日、ゆみはニューヨークに、わたしはワシントンD.C.に住んでいた。どちらも同時多発テロのターゲットになった街である。

 作品を見る人は、脳内にストックされた思い出や経験とともに作品を見ていることは前に書いた。だから、なにかを感じとり、意味を探すのは鑑賞者のほうで、そこには、自分の価値観や経験が色濃く浮かび上がる。アートを見る面白さとは、まさにそこにある。多様な解釈を許す作品、その懐の深さが、時代とひとを鏡のように映し出すのだ。

 ・・・

 作品はただ静かに佇みながら、見るものに問いかける。

―あなたは、この世界をどう見ていますか―

 その後も、いくつかの作品を前に、わたしたちは、たびたび「これって、なんだろう」と言葉に詰まった。そんなとき、白鳥さんはゆっくりと次の言葉を待っていた。彼はその言葉にならない「間」すらも愛する。思わず漏れ出す「ああ……」というため息の中にも様々な思いが流れ、その即興の音色を楽しんでいる。

 ひととひとが出会って紡ぐ、その生まれては消える音色を―。

 

P134

 ・・・白鳥さんが美術鑑賞を始めるきっかけは、大学時代のデートだったわけだが、いつしかアートは人生の大切な部分を占めるようになった。

「俺はさあ、アートに出会って生きるのが楽になったっていうのはあるよね」

「楽ってどういう感じ?」

「うーん、なんていうのかな。たまに昔の盲人仲間に会うと、そのひとは、ああ、やっぱり盲人と一緒にいると落ち着くよねとか言うわけ。俺もさあ、三〇代前半くらいまではそう思ってたんだけど、三〇代後半からそれがなくなったんだよねえ。いまは見えるとか、見えないとか関係なくなって、見えるひとの友だちのほうが多いし、むしろそっちのほうが気楽なんだよねえ」

「その感覚、わかる気がするな。例えば外国に住み始めると、最初のころは日本人同士でいるのが落ち着くんだけど、だんだん現地の友人といるのが楽しくなるわけ。『日本人』っていう理由だけで集まっちゃうとむしろ疲れることも多かったり。きっとそれと同じだね。だって、日本人とか全盲とかお母さんだとか、そういうのって、結局はそのひとを構成する要素の一部でしかないんだよね」

 ・・・

「白鳥さんは、『見えないひと』と『見えるひと』の境界線を飛び越えたからこそ、楽になって、心地よい場所を見つけることができたんだね」

「うん、確かに。知らない世界に行くときってちょっと怖い。でも、その怖さとワクワクはセットなんだ。そう考えると、不確かさがないところにワクワクはないのかな。確かな世界にずっといたら、居心地はよくても人生としては面白くないのかもねえ」