鬼は善?

きょうもいい塩梅 (文春文庫)

 このエピソードを読みながら、そういえば「死神」は、命を持って行かれないように、逆に守ってくれてるんだという、どこかで読んだ話を連想しました。

 

P188

 ある日、電車に乗ったら小さな男の子が母親に食ってかかっていた。男の子は、

「だって可哀想じゃないか」

 と言いながら、母親をにらみつけている。・・・膝の上には絵本が開かれていた。

 ・・・

 ・・・男の子は、桃太郎が鬼退治をするところが気に食わないと見える。

「鬼はやさしい顔してるのに、いじめたら可哀想だよ」

 ・・・

 私は今、武蔵野美術大学で、日本芸能史の講義を受けている。それは朝鮮や中国などの芸能ともからめ、雅楽、神楽、仏教の典礼音楽、猿楽や能、狂言、各地の民族芸能に至るまで多岐に及ぶ。佐藤健一郎教授の講義はおもしろくておもしろくて、目からウロコが落ちることの連続である。

 そのひとつが「鬼」の本来的な姿である。佐藤教授は「鬼に関しては多くの研究や学説があるが」とした上で、非常に興味深い一説を話してくださった。

 それは「鬼は善である」という説である。

 その昔、「邪悪なものは人間の目には見えない」と言われていた。目に見えないものは、普通の人間には退治できない。そこで人々は、人間ではない者に邪悪を退治してもらうことにした。

 ここから芸能的な要素が出てくるのだが、邪悪を退治する者に、つまり人間ではない者に、象徴としての仮面が必要になった。邪悪を退治する者である以上、それは強くて恐ろしい形相の仮面であることが望ましい。その結果、いわゆる「鬼」が生まれたという一説である。

 つまり、「鬼」は「邪悪を退治するために生まれた『善』」だったわけである。「邪悪」に立ち向かうために、「善」は鬼の仮面をつけていたのである。

 ところが鬼にとって悲劇なことに、人間には「邪悪」が見えない。それを退治しようとして懸命に暴れ回る鬼だけが見える。それも怪力の恐ろしい形相である。どう見ても正義の味方には見えないというものだ。

 こうして長い年月のうちに、「鬼イコール邪悪」となり、現在に伝承されている。今では「鬼」は最初から「邪悪」の象徴として、約束ごとになっていると言っていい。

 私は興味を持ち、何冊かの絵本や昔話を読んでみたが、鬼の悪行については具体的に触れていないものもある。・・・説明も何もなく、即「鬼退治に行こう!」となるものも少なくない。・・・

 ・・・ちょっと視点を変えて昔話を読んでみると、電車の中で男の子が言ったように、

「どうしていじめるんだよ。可哀想だよ」

 という説が力をおびてくる。

 確かに鬼は、結果として人間を助けているケースが多い。

 たとえば『こぶ取り爺さん』では、爺さんの悩みの種であるこぶを取ってくれたのは鬼だ。そして、『一寸法師』は鬼が持っていた打出の小槌のおかげで、背が伸びた。・・・

 それにしても、「鬼が可哀想じゃないか」と最後の最後まで言い張った、あの男の子は可愛かった。・・・