「しょせん幸せなんて、自己申告」って、いいな~と思って読みました。
P45
人には、それぞれの「器」があります。
おちょこだったり、茶碗だったり、バケツだったり、大きさはわかりません。しかしそれぞれに、ちゃんと受け止めるべきものがある。
みんな、何かの役割を持って生きているわけです。
父は、軍人の器ではなかったのでしょう。私も、サラリーマンの器ではありませんでした。
何が優れているという話ではありません。人それぞれ、役割が違うのですから、器の形や大きさを比べたって、意味はないのです。
勝敗や優劣ではなく、自分の器でしっかりと受け止められる世界を見つけること。それが大切なのだと思います。
P51
・・・悪質な場合を除いて、ほとんどの人は、「こいつ嫌なやつだな」と思っても、大概良い面も持っているんですね。
悪いところもあれば、良いところもある。
だから嫌いだと思う一方で、縁を切ることもできず、喉の奥に小骨が刺さったように、心がシクシクと痛む。
人間関係とは、まことにやっかいで、煮え切らないものです。小説やアニメの登場人物のように、わかりやすい善人や悪人なんて、一人もいやしない。
それは見方を変えれば、こうも言えます。
人間関係の悩みの原因は、人間ではなく、「関係」のほうにある、と。
その人が憎いのは、相手や自分が悪いのではない。
その人との関係、環境に問題があると、考えることはできないでしょうか。
P137
・・・ある落語の師匠がこんなことを仰っていました。
「きみまろさん、落語が面白くなるのは、60歳からだよ。歳を食って、風貌とか、喋るテンポとか、間の取り方とかね、その人独自の色が出てくる。何も言わずとも、その人の存在自体が語るようになってくるんだね」
なるほど、と私は思いました。
若い頃にはできていたことでも、老いるに従ってできないことが増えていく。それはその人の人生に刻まれた、年輪のようなものなのかもしれません。
できないから、やれることを考えるようになる。
日陰に生まれた木々が、光を求めて枝葉を伸ばしていくように、人それぞれ抱える問題が、その人の人生を独自の形にしていく。
できないことが、人間を成熟させるのですね。
そう考えると、半世紀以上、倒れずに頑張ってくれているこの体が、何だか愛おしく思えてきます。
・・・
・・・できないことは、もうやる必要がないのです。
こんなに頑張ってきたのですから。
ないなら、ないなりのやり方があるということです。
いろいろ不満は尽きませんが、しょせん幸せなんて自己申告。
他人や、過去の自分と比べたって、仕方ありません。
貧乏人でも金持ちでも、どうせ死亡率は100%と決まっています。
ならば、今日できることを、一日一日と楽しんでいきたいものです。
P181
私は、30年間「かもしれない」人生を送ってきました。
売れるかもしれないし、売れないかもしれない。
自分には才能があるかもしれないし、ないかもしれない。
確実なものなど何一つない中で、それでも諦めずに一つ一つ決断して、ようやくここまで歩いてきました。
今はこうして皆さまに知っていただき、公演やテレビにたくさん出演できるようになりましたが、どこか一つ歯車が噛み合っていなかったら、未だに高速道路のサービスエリアで、自作のテープを配り続けていたかもしれません。
それでも私は、やらないで失敗しないよりも、やって失敗したほうが、悔いが残らないと思った。
努力をしたから、必ず成功できるわけではないけれども、成功した人は皆、等しく努力をしている。
だから私は諦めずに、テープを配り続けたのです。
「人は自由の刑に処せられている」とは、フランスの有名な哲学者サルトルの言葉です。
どんな人生を歩むのかは、個人の自由です。
しかし自由であるからこそ、人は常に決断を迫られる。
やるか、やらないか。
どちらが幸せかなんて、わかりません。
人生は、片一方しか選べないのですから。
繰り返しになりますが、しょせん幸せなんて、自己申告です。
大切なのは、やるにせよ、やらないにせよ、どちらなら納得してその後の人生の責任を引き受けられるか、ということではないでしょうか。