私の日々のサイズ

希望という名のアナログ日記

 角田さんの30代みたいなフルフル生活はしたことがないけれど、そうだよなぁと共感して読みました。

 

P112

 暮らしというのはくり返しだ。・・・

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 ・・・三十代の半ばごろ・・・私は年齢的に気力も体力もみなぎっていた。・・・具体的には、限界ぎりぎりまでの締め切りを抱え、取材も取材旅行もめったに断らず、外食はほとんどせずに食事を作り、しかも日々あたらしい食材にチャレンジし、ときどきは深夜まで飲み、週に一回大がかりな掃除をして、スポーツ系のジムに二つ通い、英語を習い、友だちと会い、ひとり旅をしていた。・・・このような日々を充実と呼ぶのではないか。

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 ・・・二十代のころ、ほんの一時期、望んだわけではないが、くり返しができなくなったことがあった。

 今思えばつまらないことだけれど、その当時はたいへん気持ちのくじけるできごとがあって、それまでできていたことがちゃんとできなくなった。・・・

 そんな状態の数か月の後、なんとか私はその状態から抜け出すことができた。・・・何があったわけではなくて、軋んだ暮らしが心底いやになったのだと思う。このままではまずい、と無意識に実感したのだ。

 私は今年五十歳になった。二十代のときのように、かんたんにくり返しをストップする繊細さはなく、三十代のようなフル充電フル放出のような体力も気力もない。暮らしというものはかぎりのないくり返しだと、今も思っているけれど、そのことに失望することもない。くり返しの意味合いが、私のなかではだいぶ変わったのだ。と、いうより、私の幸福感が変わったのかもしれない。

 充実しきった日々を夢中で過ごして、そうすることで、ずっと遠くに、ずっと高いところにいくことが以前の私は幸福だと思っていた。でも、そうではない、と思うようになった。今日一日を、昨日と同じようにくり返せること、フルの力じゃなくてもいい、高くも遠くもいかなくていい、掘った穴を埋めるような一日が過ごせること―そのほうが、ずっと幸福だと思うようになった。

 そう思うようになった理由は二つあって、ひとつは猫と暮らすようになったせいだろうと思う。猫は毎日毎日、戸惑うくらい同じように過ごす。それを見ているとだんだん、昨日と同じというのはむなしいことではなくて、大いなる平穏に思えてくるのだ。ささやかな奇跡のようにすら思える。

 もうひとつは、年齢のせいだろう。三十代のころと同じ量のことを同じスピードでこなすのが、不可能だと体でも頭でも理解できてくる。さらに、その量をそのスピードでこなしても、とくに何かいいことはないと経験的に知っている。・・・だから、できることをマイペースで続けていくほうが大事になってくる。

 そんなふうに暮らしにたいする幸福観が変わってから、「くり返し」の、大きなメリットを見つけた。それは自分を知る、ということ。私の日々のサイズが具体的にわかってくる。・・・

 そして何よりいちばんいいのは、他人の幸福と混同しなくてもすむ。・・・自分の毎日があまりにも地味に思えてくるかもしれない。そのときに、自分の日々のサイズを知っていれば、揺らがない。逆にそれを知らないと、永遠に欲しくもないものにあこがれることになってしまう。

 暮らしとたのしむということは、つまるところ、私でいることをたのしむ、ということでもあるのかもしれない。