彼女の弟に負けたというこのエピソード、その後ふりかえっての話も含めて味わい深かったです。
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遠い昔の若い頃、私はそのときの恋人と下北沢の路上で別れたことがある。
恋人には別れたけれど忘れられない彼女がいて、そのとき、その彼女の弟と私とどっちを家に泊めるかという段になってなんと彼は彼女の弟を取ったのである。
みなさん、ちょっと聞いてくださいよ、彼女でさえないんですよ!
彼女の弟ですよ!
男に負けたんですよ!
さすがにが~んとなって、私は別れを決め、静かに自分の住む街へのタクシーを拾ったのだが、あのときの悲しい気持ちを今もおぼえている。
・・・
君ならきっと許してくれるから、今日は彼女の弟を泊めてやろう、家も彼女の弟のほうが遠いし……今思うとそんなあたりまえの彼の判断なんだけれど、やっぱりそのときの私には受け入れがたかったのだ。
みんなで雑魚寝しようでもいいし、みんなで電車が動くまで飲もうでもよかったのに。
彼女の話を彼女の弟とするのを私に聞かれたくない、その気持ちが悲しかった。
たまに、夜中に駅まで友だちを見送った後など、私は子どもの手をひいて、その場所を通りかかる。
・・・
あのときの私は、まさか自分がいつかこの街に住むなんて思っていなかった。
子どもを連れて、いっしょにガリガリ君を食べながら、自分の家に向かってそこを歩く日が来るなんて、全くありえないはずだった。
あんなにも悲しくて、目の前が真っ暗で、タクシーの中でしくしく泣いて運転手さんをびびらせ、遠い街まで帰っていったひとりぼっちだったあの日の私に「そのあと結局あなたは別の人と結婚して下北沢に住んで、この場所を子どもと歩くことになるんだよ」って言ってやりたい。
なんてすてきなんだろう、人生は、なんていいものなんだろう。
嬉しかったことが悲しくなる場所もたくさんあるけれど、同じくらいの力で、悲しかったことが嬉しくなる場所もある。なにも固定されていない。生きているかぎり更新され、紡がれていく。
この街でまだまた、その営みを続けていきたい。
そしていろんな人とすれ違ったり、出会ったり、別れたりしたい。
きっと街が見ていてくれる。