生きるコント

生きるコント〈2〉 (文春文庫)

大宮エリーさんの「生きるコント2」を読みました。
なんか、慰められるというか(笑)、なんともいいです(^^)

P94
 なぜ会社を辞めたのですか。よく聞かれる質問。でも理由はない。ふと急に、辞めようという気持ちが降って来たのだ。ただ、降って来るきっかけなら心当たりがある。山ごもりしたり滝に打たれたりと修行を積まれている行者に会ったとき妙なことを言われたのだ。
「あなたね、自分の気持ちが一番大事なんですよ。神様はね、あなたの心の中にいるんです」
 ほぉ。宗教は苦手なのだが、そういう考え方は嫌いじゃない。お経も聖書も仏像も十字架も必要なく、心の声に耳を傾ければ答えが見つかるというのはとても哲学的で合理的な考え方ではないか。が、意外とこれが難しいことに気づく。
心のままにって、そんなの無理じゃないですか?だってそんなことしたら、自由奔放になって会社員なんてしてられないっすよ」
 所詮、理想論よね、と続けようとしたわたしに行者は微笑んでこう言った。
「それが心の声なら辞めればいいんです。心のままに直感を信じて生きれば、びっくりするぐらい幸せになれますよ」
 修行の成果なのか、この世の雑念、邪念から無縁な様子でニコニコ笑っている。でもわたしは普通の人だ。社会の中で折り合いをつけて妥協して生きていかないといけない。自分に正直に生きるなんて身勝手をしたら面倒なことになり、むしろ不幸になるのではないか。
 行者が再び口を開く。
「まずは訓練をするといいです。自分の気持ちに正直になる修行があなたには必要です」
 修行?具体的にそれはどういう修行なの?聞くと、パッ、と直感でいいから、いいなと思ったことを実践する癖をつけるのがいいという。
「蕎麦が食べたいと思ったら昨日もお蕎麦だったとか野菜不足だとか考えずに、何が何でも蕎麦を食べに行くのです」
 修行といっても案外簡単だな、と思った。
 行者と出会ったことなどすっかり忘れて数週間が経ったある日。深夜残業中の会社で、わたしは無性にお蕎麦が食べたくなった。珍しく心の声が聞こえたのである。そしてふとあの行者の言葉を思い出したのである。
「あら!これだわ!じゃあ、おいしいお蕎麦を今すぐ食べに行かなきゃ!」
 ちょっと遠かったが、直感で、あそこだと思った美味い蕎麦を出す店へ。ラストオーダー何時だったかしら、と不安に思ったが、直感を信じて高速を走る。無事ラストオーダー5分前に、入店。さっきまで会社にいたのに今は黒い手打ち蕎麦を食べている。確かにちょっと贅沢な気分。だが、こんなことが幸せへの修行になるのだろうか。
 直感で食べたいと思ったものを食べる謎の修行を続けていたわたしは妙に何か足りないと思うようになった。花だ。心がそう言っている。暮らしに花。会社に花を。わたしはそういえば、花が好きだったことを思い出した。それから毎朝、ピンときた花を買って、デスクに飾るようになった。まだ人がまばらな朝のオフィスにパチン、パチンと、園芸バサミの音が響く。
「自分の気持ちに正直に。行者が言ったことが正しいならここから何か見えてくるはずだ」
 直感を信じていくうちに、次第に持ち込む花がエスカレートしていく。「きれいな花だね、こういうのが社内環境を健やかにするよね」と、いつも褒めてくれていた前の席の先輩が、わたしがついに桜の大きな枝数本を持ち込んだとき、こう言った。
「あのさ、ずっと思ってたんだけどさ、花びらとか花粉がさ、俺のデスクに落ちてくるんだよね」
 露骨に迷惑そうである。「す、すみません」置く場所を考えたり、枝を短くカットしたり、他人の陣地を侵さない工夫はしたが、生けるのをやめなかった。
 そしてある日、わたしは花を買いたいと思わなかった。欲しい花が浮かばない、その心に耳を澄ませたところ、こんな声が聞こえたのである。
「会社、やーめよっと」
 これがわたしが会社を辞めた真相である。