目の前だけを見て

シンクロの鬼と呼ばれて(新潮文庫)

 この辺りも、かっこいいなぁ・・・と印象に残りました。

 

P115

―一九七八年、はじめて国際大会に同道してからを数えると、井村のコーチ人生は今年で実に三五年である。その間、常にシンクロ界の第一線で活躍し、オリンピックでは八大会連続のメダル獲得を果たした。そのパワフルなエネルギーの原動力は何なのか。

 

 それは、いつも目の前にある一回、一回のことしか見てないからです。

「八回行くんだ」と考えたら、とても続きませんよ。

 多分、「あと二回」と言われただけでも息切れすると思う。先のことは何も考えてないからやれるんですね。長い計画を立ててやるのはしんどいとわかっているから、私は何でも短いスパンで考えることにしています。

 そして、オリンピックが終わったばかりの年なんて、先のことは何も考えません。

 だから、今もまだ「完全な白紙」です。

 ひとつ大会が終わるごとに、一度自分を空っぽにする。次のことを考え始めるのは、やっぱり三年目くらいからですよ。目の前の一回一回に全力で打ち込んで、振り返ってみたら、

「そうか、八回も出たんかぁ……」という感じなの。

 

P238

―ところで、日本水泳連盟に「鬱陶しい存在」とみられ、「年齢オーバー」という理由で排除された彼女は、女性であることや、六十代という年齢にハンディを感じているのだろうか?

 

 私は「ハンディ」という言葉は使わない人なの。そんな言葉、私の辞書にはありません。

 何故かというと、「ハンディ」と言った途端に、そこで止まってしまいますから。

 その言葉を言うことで、どこかに責任転嫁して自分を許してしまったら、そこで止まってしまって、その先の成長がないでしょう?

 確かにハンディは誰にもあるけれど、私が思っているのは、

「神様は平等で、ハンディがある人にも、何か別の素晴らしいものを与えてくれているはずや」ということなんです。

 だから私は、「ハンディ」と、「仕方がない」、その二つの言葉は使ったことがありません。

「年齢オーバーや」と言われたときも、それをハンディキャップとは思わなかった。

「そうか、ここは私が必要とされてない場所なんだ。だったら必要とされる場所に行って、そこでチャレンジすればいい」と考えるようにしました。

 どこの組織にも、その組織の方針がありますよね。

 それが正しいか正しくないかは、いずれ結果が出て、わかるときがくるでしょう。

 組織の何人もの人が、それで正しいと思っているんだから、

「あなたたち、間違ってますよ。気がつきなさいよ」と言ったって、相手は意地でも気がつかない。

 ただ、齢のこと言われたときは、ハンディとか悔しいというよりも、「人間として失礼や」とは思いましたね。

 人間は、みんな平等に齢をとっていくのに、「もう齢だからあかん」と言ったら、産んでくれた親に対して申し訳ない。それってすごく失礼なことです。だからそういう人には、

「あなたも齢取るのよ」と、笑って言ってあげることにしているの。

 ・・・

 私を鬱陶しいと取るか、面白いと取るかは、その人のキャパシティーの差だと思っています。

 キャパシティーのある人は、自分の世界から飛び出して、「ここに何かあるな」と、私の話に耳を傾けてくれます。