こちらは上橋菜穂子さんのお話で、印象に残ったところです。
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・・・世界でも珍しい、野生動物(とくに猛禽類)を専門に診ておられる獣医師の齊藤慶輔先生と対談させていただいたのですが、この方のお話が、とてもとても面白かったのです。
・・・とくに、はっとしたのが、オオワシやオジロワシが風力発電の風車のブレードに、ばっさりと一刀両断されてしまうというお話でした。
・・・共通する特徴があるというのです。それは、その猛禽たちのすべてが、上からの一撃で切り殺されている、ということ。風車は回転していますから、当然、ブレードは上からも、下からも来るはずです。しかし、下から切られている猛禽はいない、というのです。
猛禽は飛ぶとき、前方と、餌を探すために下方を同時に見ている。しかし、自分の後方や上空を見ることはできない。・・・
悠々と天空を舞い飛んでいるオオワシは、地上にいる私たち人間よりずっと広い視野で世界を見ているように思えますが、それでもなお、「見える」視野は限られているのですね。
でも、あれほど巨大な物体が回転しているのですから、そもそも、ブレードの下に入ってしまう前に、なぜ避けないのだろう、と思ったのですが、齊藤先生は、「大き過ぎるものは、認識できないのだろう」とおっしゃったのです。
見えていても、認識できない。自分が想像できる範囲を超えるものは、目の前に見えているのに、「見えない」ことがあるのかもしれない。
それは、私にとっては、猛烈に面白いお話でした。実は、似たような話を、オーストラリアでフィールドワークをしていたときに聞いたことがあったからです。それは、カンガルーの交通事故の話でした。
・・・
・・・ある人が、
「カンガルーは、車を認識できないらしいね」
と、言ったのです。
「動物が近づいてくるときの物音ってのは、二本足でも、四本足でも、タ、タ、というようなリズムがあるだろう?でも、自動車の車輪がアスファルトの上を走ってくる音っていうのは連続音だから、生き物が近づいてくる音とは、まったく異質の音なんだよ。
ライトもそうだ。あんな光を煌々とつけて近づいてくる生き物はいないから、カンガルーも、他の動物も、近づいてくる『それ』が何なのか認識できずに、呆然としているうちに、撥ねられてしまうんじゃないかな」
・・・
目で見ることができる物体さえ、ときに「見えない」状態になるというのは、なんとも不思議ですが、私には、このことが、生き物の認識の本質に深く関わっているような気がしてならないのです。
もしかすると、生き物はそれぞれ、「想定」の箱の中で暮らしているのではないか。自分と、自分を取り巻く世界が「こういうものである」という「想定の箱」の中で。
・・・
例えばヒトのように、視覚―目で見ること―が、とても大切になっている生き物にとっては、「見えるか、見えないか」が、「あるか、ないか」を想定する基準になっていて、それは、とても頑固で強力な基準として共有されているような気がするのです。
でも、世の中には、ふと、「想定の箱」の外に思いを巡らし、見えないものでも、在るのではないか?と考えることができる人もいて、そういう人が、常識の中に埋没していては決して気づくことのできぬ、思いもかけぬ何かに気づき、新しい道を見出してきたのかもしれません。・・・