おもしろいタイトルが目にとまって、読んでみました。
料理家の高山なおみさんと、夫のスイセイさんの合作です。
印象に残ったところを書きとめておきたいと思います。
こちらはスイセイさんのエッセイから。
P69
おなじ宿に泊まった旅行者どうしで、それぞれの旅の情報を交換しあうことがある。
そこでたとえば自分が興味ある街についてようすを尋ねてみると、おなじ街のはずが人によって印象がまるで違うことがよくあった。
幾人かの話を聞いてもよくわからず、結局自分でたしかめるしかないということになる。
そして、実際に自分がその街に出かけてみると、またどの人とも違う感想を持ってしまう。
おれらはたしかに物理的にはおなじ場所にいるけど、おなじ場所じゃないのかもしれないとおもうようになった。
ひとは心というものを持っていて、心はそれまでの経験によって形作られている。
だからひとによって形が違う。
旅行というのは肉体のただの物理的な移動だけじゃないから、心の経験でもあるから。
などと、くどくど考えた。
そして、心の方の見方を「感受性の王国」と名づけた。
こちらはお二人の対談から。
P81
スイ たとえば、先生と生徒という言いかたがあるけど、でも、たとえばその先生から生徒をはずしたらどうなると思う?
高山 成り立たないね。
スイ 先生だけになったら、その人は先生じゃなくなる。慕ってくれる生徒があって、はじめて先生が成り立つような。たとえば料理家についてもそう思う。
高山 食べてくれる相手がいないと、成立しない。
スイ 今のに、「先生の孤独」という名前をつけよう。どういう場面においても先生なんじゃなくて、たまたま生徒の前にいるから、先生なんだと思う。これは話しが飛ぶかも分からんけど、マザー・テレサなんかは、自分を出し惜しみせずにふるまった人の最上級じゃない。たくさんの人がマザー・テレサからもらったけど、彼女は実は飢えとった人かも分からん。
高山 自分のすべてを差し出さないと、生きられないくらいの?
スイ 生まれたての赤ん坊は母乳がないと困るけど、母親も母乳を飲んでくれる赤ん坊がいないと困る。
高山 ふるまう方もお腹がすいている、飢えているっていうことか。そう言われると楽だなあ。「料理ってすごい」とか、「人を幸せにするもの」って、ほとんどの人は言うけど、私はそんなに立派なものじゃあないと思うから。
スイ お互いさまよのう。