大事な話だなと思いました。
年々、すこーしずつ変化してきているような気もしますが・・・
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六年間中学生にサッカーを教えていて、不思議だったことがある。
私は、練習には基礎よりもミニゲームを多く取り入れるのが好きだ。ミニゲームをやると、それぞれの子どもの面白さが出てくる。
だが、そのやり方を気に入らない親御さんがいる。練習の日に見学に来て、終わると不満そうに私にこう言ってくる。
「基礎をやってくれ」
「うちの子は、まだヘディングはあまりできていない」
ヘディングができないスター選手はいっぱいいる。それができるだけでもいーじゃん!
違いがあっていいし、それぞれの違いを組み合わせたところでいいチームができると思っているのだが、そういうやり方は、みなさんお好みではないようだ。
日本の社会は、どうやら普遍的なものや価値、行動を求めがちであるということはわかってきたが、人間さえも普遍的につくりたいと思っているのだろうか。・・・
・・・
いかに自分の子を他の子と差がないようにするか。そして、個性よりも、いかに自分の子が上位にいるか、ということを大事に考えてしまうような傾向はないだろうか。
わが子を偏差値の高い大学や医学部に進学させたお母さんが、私に耳打ちで報告してきたときは驚いた。
「うちの子、医学部なんです」
なんで小声やねん!という話である。
何かそれが特別なことであるかのような態度で、理解に苦しんだ。
医学部に行きたかった子が医学部に行くのなら、別に「よかったね」と思うし、やりたい子がやりたい道に進んだ、というだけのことであるはずなのに。
日本の教育は・・・
表面的には「平等だ」と言っているけれど、平等の意味を履き違え、実際のところは、一部の子たちが拾われていないように見える。
どんな子かと言えば、自分なりの価値観を持っていたり、自分なりのやり方を持っていたり、形式を重んじたくない子だ。・・・
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近代教育はある意味、生産できる人間とその予備軍をつくるためのものと言える。それゆえ、生産のプロセスに乗らなければ、「いらない」「使えない」人間になってしまう。・・・それは、「本人が満足できる人生を送る」という教育とは全く異なるものである。
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気づいた人たち、何かを変えようとする人たちは、今の日本社会にとっては「異分子」になってしまっている。だから、スムーズに流れている現状のシステムに問題が生じたときには、その「異分子」が他に影響を与えないように、排除の論理が働いてしまうのではないか。
私たちは演者の一人であり、普通に生きていればシステムの維持に協力してしまう。けれど、普通に生きようとせず、自分流に生きようとすれば、ほんとうは疑問を感じるはずなのである。
違うでしょ、と。