お坊さんになる前、若い頃に三度も自殺未遂をしたそうで、そのときのお話です。
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・・・三度目の正直と死に場所を求めて、・・・佐々井さんが向かったのは・・・大菩薩峠。
・・・
「ところが、登り始めてすぐ、足に血マメができてな、痛いのなんの」
「血マメ?登山靴ではなかったのですか?」
「米子を学生服のまま飛び出したんだから、靴はそのへんのゴム靴だ」
「えー?大菩薩峠への道はかなり急ですよ。そんな軽装では死んでしまいます」
「いいんだよ、死にに行くんだから!」
・・・
「迷っている場合ではない。俺は自分で頭をかち割って死なねばならない。この世は神も仏もない。俺は孤独だ、人間は偽善者だらけだ。もういい、俺は今、この世から消える……!そう叫んでな、・・・底の見えない暗い崖から飛び降りようとした、まさにその時!」
「待て!」と止める声がする。
「誰だ?」。振り返るが誰もいない。
「お前は今、死んだんだ!」
「俺が今、死んだ?」
「そうだ。そして生まれ変わった。今のお前は生まれ変わったお前だ!もう過去はない。大菩薩峠がお前の生まれた場所だ。だから過去はもう振り返るな。将来に向かって進め!」
「いったい俺はどこへ向かえば?」
「ハッハッハ!お前には足があるだろう」
それで声は途絶えた。不思議なことが起きるものだ。
「もしかして、佐々井さん、死にたいと言い続けるうち頭がおかしくなって、幻聴まで聞こえるようになったのでは?」
「いいや、はっきり聞こえた。近くに妙見菩薩の社があったから、声の主は妙見様だろう」
「これまでに何度も自殺を試みて失敗するも、執念深く死に場所を探す佐々井さんが、妙見様の声とはいえ、あっさり諦められるのですか?」
「その時、そうか、死ぬ気になれば何でもできる!とひらめいたんだ」
・・・
お腹はすき、喉は乾き、ふらふらであったが、気力を振り絞って大菩薩峠から山道を下り、勝沼方面への林道を歩いていると、寺らしき大きな屋根が見えた。しかし、体はすでに極限状態を迎えていた。
「その屋根が見えたところでぶっ倒れてな、村の人が発見してくれたんだが、意識がないから、頬を叩かれ、水をかけられる。もう午後だったな。目が覚めたら、『気が付いたー!』と。・・・宿坊まで俺を運んでくれて」
佐々井さんが運ばれたのは、真言宗の名刹、大善寺で、和尚さんの名前は井上秀祐さんと言った。・・・和尚さんは背は低いが眼光鋭く、ひと目で只者ではないことは分かった。佐々井さんは、興奮した。お寺に運ばれたのは偶然ではない、これは仏のおみちびきかもしれない。じっと佐々井さんの顔を覗き込んだ和尚さんは一言、「実君は宗教というものをやるか?やりたいなら、ここに置いてあげるよ」という。佐々井さんは飛び上がらんばかりに驚いた。
「なぜ和尚さんは会ってすぐに俺の心が分かるんですか?」
「実君はお坊さんになりたくて、ここに来たんだろう?」
「そうです。お坊さんになりたかったけれど、比叡山では断られ……俺は大菩薩峠で死にきれず、山道を歩いてここまできました。和尚さん、神通力でもあるんですか?」