こちらは美内すずえさんが和尚さんから聞いたというお話、大事だなと思いました。
美内 以前、親しくさせていただいていた禅宗の和尚さんが、「『禅』はただ座るのみ」とおっしゃったことがあります。「瞑想中、何か神秘体験とかは起きないんですか?」と聞いた時の答えです。その時、先輩の僧侶達から昔聞いたという話を教えてもらいました。
ある時一人の男が、自分の身によく不思議な現象が起きて困っている、と僧侶達のもとへ相談にみえられた。僧侶達と一緒に小舟に乗って、池の中ほどまできた時に、その男性は船から下りて池に移った、というんです。水に沈むことなく、池の上にあぐらをかいて、じっと浮かんでいたと。
で、ここからが凄いんです。僧侶達は黙ってそれを見ていて、やおら男を舟に引き上げ、その後「もう二度とこんなことをするんじゃないよ」。
つまり、僧侶達にとっては「それがどうした」、なんですね。不思議と思えることも〝不思議〝にとらわれてはいけない。「悟り」とは何か。そんなことを教えられたように思いました。
甲野 いま美内先生がされたお話は、「正法に不思議なし」と昔からよく言われることについてのお話ですよね。このことは、私にとって長年考えてきた重要なテーマの一つでした。なぜなら、私の技の研究も「できねば無意味」という鉄則を自分に課しながら、同時に次の段階として「できて、それがどうなのか」ということと向き合わなければならないと思っていたからです。
私にとって「悟り」とは、「人が人として生きていく上で本当に納得できるかどうか」ということだと思っておりましたから、本当に納得できる生き方ができれば、それはどんな超常的なことができるよりも意味があるわけです。ですが、同時に生命の精妙な働きを証明することの一つとして、超常的な現象というものが生じることも、また確かだと思います。