知の巨人、腎臓移植をする

知の巨人、腎臓移植をする(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)

 知らなかったことばかりで、読んでよかったです。

 

P29

石田 腎臓移植手術というのは、たしかに簡単ではありません。しかし、リスクはけっして高くありません。私は一九八七年に医者になりましたが、当時とは比較にならないほど、今は安全性が向上しています。

佐藤 拒絶反応が起きるケースが大幅に減った。

石田 そうです。細かい話はまたあとでしますが、手術前の検査技術、それから免疫抑制剤にめざましい進歩があったんです。女子医大で腎臓移植を受けた方の五年生存率は、近年(二〇〇五~二〇一六年)では約九五パーセントです。

 

P35

佐藤 一年半の透析生活を経て移植手術を受けたのは、先ほど言った通り、二〇二三年六月でした。手術直後から、低体温も低血圧も完全になくなりました。夏でも冷たかった私の手足には温かみが戻って、毎日重く感じられていた身体は驚くほど軽くなりました。

 もちろん水分制限はなくなります。喉の渇きから解放されるだけでも、どれほど楽になるか。これは実際に経験した人だけが分かる話でしょうね。今、私はこうしてコーヒーを飲んでいますが、飲み物を自由に飲めるのは本当に幸せなことだと、改めて思います。

 ・・・

 移植からそろそろ一年が過ぎますが、本当にこんな毎日は夢のようだと思います。生活の質が上がっただけではなくて、仕事のパフォーマンスも大きく向上しました。

 とはいえ、移植を受けたあとも病院に通うことは続きます。免疫抑制剤を飲み続ける必要があるからです。

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 ・・・私の場合だと免疫抑制剤を、一日二回、これを死ぬまで飲むことになります。薬さえもらえればいいわけではなくて、免疫系のバランスが取れているかの健康チェックと薬を処方してもらうための通院が、月に一回必要です(最終章で詳述)。

 また、免疫抑制剤を飲んでいればどうしても免疫力が落ちますので、感染症のリスクが高くなります。私はつねにマスクをしていて、人混みにはなるべく行かないようにしています。

 しかし、移植後のケアはこれだけです。生活の不便は特に感じません。ところが、こうした話は世間にはほとんど知られていません。

石田 移植手術は件数が少ないですからね。

佐藤 そうなんです。当事者が少ないために、社会問題として認知されていない。認知されていないので、ますます当事者が増えないという負のスパイラルが起きています。

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 腎臓移植とはどういう手術なのか。このこともまた、ほとんど知られていません。実は私も、当事者になるまでよく知りませんでした。

 当初、私は「妻からもらった腎臓は自分の腎臓があったところに付けるのだろう」と、漠然と考えていました。そうすると、ダメになってしまった私の腎臓は二つとも摘出するのかどうか。自分で検索などをしても知りたい情報は手に入りません。そういう情報は案外、ネットの大海には漂っていないのです。

 そこで心配になって石田先生に聞いてみたら、「いえ、違うんです」と。「佐藤さんの腎臓はそのまま残しておいて、奥さんの腎臓は別の場所に付けます。だから三つ目の腎臓になるんですよ」と言われて「そうなんですか」と驚きましたが、こうした情報はなかなかネットからは手に入りませんね。

 また、ドナーとレシピエントの血液型が違うケースー血液型が違う人同士の腎臓移植も、今はほぼ問題なくできます。しかし、これもまだ一般常識にはなっていませんね。

石田 昔のイメージがまだ残っているのかもしれませんね。世界で初めて血液型不適合腎臓移植、すなわち血液型の違うドナーからの腎臓移植手術が成功したのは、一九八九年のことでした。

 当時は血液型不適合腎臓移植はリスクがありましたが、免疫抑制剤の進歩、それから血漿交換という治療によって、今は安全にできるようになっています。

佐藤 ドナーの手術にも大きな進歩があったそうですね。

石田 はい。昔はドナーさんから腎臓を取るときには、脇腹を二〇センチから三〇センチほど切っていましたが、このときに筋肉にメスを入れていました。

 移植に限らず筋肉を切る手術というのは術後の痛みが大変なんですが、当時は三種類のお腹の筋肉を切らないと腎臓に到達することができなくて、だからドナーさんは相当に痛かったんです。一年経ってもまだ痛くて、普通に歩けない―というケースもありました。

 一方、レシピエントさんの手術は筋肉をほとんど切りません。だから、術後の痛みが軽いし、数日で痛みは消えます。しかし、ドナーさんが苦しむ姿を見て、レシピエントさんが心理的ダメージを受けてしまうことがよくありました。

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 しかし今は、ドナーさんの手術は内視鏡でできますし、内視鏡手術では腎臓を取るための傷がトータル五~七センチで済みます。内視鏡を入れるための数箇所の傷はどれも一センチ台です。だから術後の痛みは小さくて、結果としてレシピエントさんが苦悩することもまずなくなりました。ドナーさんの肉体的負担とレシピエントさんの心理的負担は、昔と比べて格段に小さくなっています。

佐藤 一つここで強調しておきたいのは、「私はドナーにならない」という選択の重要性です。腎臓病患者の親、きょうだい、配偶者だから当然、ドナーになるべきだという発想が間違っています。そこは強調したいです。

石田 そうです。それはひじょうに大事なことです。

佐藤 ドナーにならなくても誰かに非難される筋合いはないし、「自分は冷たい人間ではないだろうか」などと気に病む必要もいっさいありません。

石田 腎臓移植には二種類あります。一つは献腎移植です。脳死判定された人、心停止で亡くなった人からの移植ですね。・・・

 ただし献腎は数が少ない。・・・献腎移植を希望する人たちの平均待ち時間は、約一五年です。二〇年以上待ち続けている人も珍しくありません。

 もう一つの腎臓移植は、すでに話題に上がっている生体腎移植、つまり生きている人同士の移植です。ドナーになれるのは日本移植学会のガイドラインでは、六親等以内の血族、三親等以内の姻族(配偶者の血族)ですから、姻族のように直接の血縁がない「他人」でもドナーになれます。

 しかし、ドナーが外科手術を受けるメリットは、少なくとも肉体的には何もありません。一方で、わずかとはいえリスクがあります。家族に末期腎不全の患者がいる人が「ドナーにならない」という選択をするのは、だから当然なんです。

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 ・・・少しでも迷いがあるのなら、手術直前にキャンセルしてもらってもかまいません。実際、直前のキャンセルはよくあります。ドナーさんの気持ちが固まるまで、私たちはいくらでも待ちます。

佐藤 女子医大が発行しているドナー向けのマニュアルには、そこが強調されて書かれていますね。「手術室に入る直前でも断れます」と。「やっぱりやめます」ということはいつでも言っていい。

石田 ・・・ご本人が考えるだけではなくて、病院側からも意思確認をします。まずは移植コーディネーターによる意思確認があって、手術が近づいてきたら精神科の医者がドナーさんと面談して、再度確認をします。

 

P190

石田 先ほど言った通り、私が医者になったのは一九八七年です。そこからの約一〇年は、ずっと暗中模索のような毎日でした。「同じ腎臓移植の患者さんなのに、どうしてこの人には拒絶反応が起きて、この人には起きないのか」と頭を抱えることが幾度となくあったわけです。しかし、そういうことはもうなくなりました。術後に起きることの九分九厘は、事前に予想した範囲内です。

佐藤 ターニングポイントはいつ頃だったんですか。

石田 これも二〇〇五年です。術前検査に大きな進歩があったのは、リツキシマブが使われるようになったのと同じ二〇〇五年だったんです。

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 ・・・手術や免疫抑制剤のみならず、術前検査も大きく進歩しました。私が医者になった頃を振り返ると、いい意味で隔世の感がありますね。

 

P211

 医師の仕事ということで言えば、近年は「ダヴィンチ」をはじめとする手術支援ロボットが急速に普及しています。・・・石田先生からご覧になって、現場ではどういう変化が起きていますか。

石田 医者サイドとしては、肉体的負担が減りました。手術室ではみんな椅子に座るスタイルが定着しました。何時間も立ったままの手術とはまるで違います。

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ダヴィンチ」のメスは、人間の関節ではありえない形でも動きます。・・・どんなところにも適切に入っていけるんです。前立腺摘出のような狭い範囲の手術は、特にダヴィンチがいいですね。

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佐藤 ランニングコストの問題の他に、何かデメリットはありますか。

石田 これは直接的なデメリットではありませんが、腎臓癌の手術ではちょっとよくないことが起きていると、個人的に感じています。

 ダヴィンチによる腎臓癌の手術は、以前は部分切除だけが保険適用でした。それが二〇二二年から全摘出手術も保険適用になって、そのために最近はダヴィンチによる全摘出、つまり腎臓をまるごと取り切る手術が増えています。

 しかし、腎臓癌の手術というのは腫瘍だけを切り取ればいいんです。腎癌は今、それで完治します。逆に言えば、全摘出手術は極力やるべきではない。それなのになぜ全摘出手術が増えているのかというと、部分切除に比べて簡単だからです。

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 ・・・残せるところは残しておかなければいけない。それが私たちの基本方針で、全摘出手術は極力やりません。ところが、そのために女子医大では腎臓癌の手術が減ってしまいました。

 よその病院の治療方針に異を唱えるのは、僭越なことです。全摘出手術が適切である事例も多数あります。しかし、腎臓癌の手術においては「残せる部分は残す」というのがベストだということは、情報としてもっと広まってほしいですね。