奇跡的な瞬間に立ち会う幸せ

 

奇跡なんて、起きない。 フィギュアスケートマガジン取材記2015-2019

 羽生結弦さんに関する本を色々読むと、取材する記者や、コーチをはじめとする周りで支える人々から、彼に関わる喜びというか、何かを超えた思いが伝わってきました。

 この本の著者は、いったん平昌オリンピックのあと、アイスホッケーの発展に関わりたいということで、フィギュアの取材から遠ざかったそうですが、また戻って来た時のことをこんな風に書いていました。

 

P358

 1年ぶりに羽生の話を聞き、気づいたことがあった。彼の話を聞く前と、聞いた後では、自分の中の考えが少しだけ変わっているのだ。そうか、確かにそういう考え方もあるよな。オレは今まで、そこに気づいてなかったな。そんなふうに、自分の内面世界にちょっとした変化があるのだ。それで人生が変わったとか、大げさなことを言うつもりはないけれど、そういう小さな発見、変化を感じるのも、この「旅」の魅力に違いない。

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 ・・・羽生は「今でも感覚を追い求めている」「完璧だった自分」をイメージするものとして、2017年3月、ヘルシンキでの世界選手権を挙げた。SP5位と出遅れ、フリー『ホープ&レガシー』で逆転優勝を果たした、あの大会だ。「奇跡の優勝」。そんなふうに報じたメディアがあったが、現場で一部始終を見ていた者として「奇跡」という表現がしっくりこなかった。確かに奇跡的ではあったけれども、けっして奇跡ではないと思ったのだ。SPでつまずいた理由を羽生とチームが分析し、数々の経験から策をひもとき、日常において磨いてきた技術と集中力を出しきって手にした、会心の勝利だった。

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ヘルシンキ世界選手権は、SP5位からフリーで世界記録を更新して逆転。「奇跡の優勝」と報じられましたが、「奇跡」という言い回しに違和感を覚えました。そもそも羽生選手はスケート、スポーツ、あるいは人生において奇跡は起こると思いますか。

 

羽生 奇跡も何も、そういう練習をしていたので(笑)、自分の中では。

 

―奇跡ではなく、必然の勝利だったと。

 

羽生 うん、「当然やるよ」っていう…。ただ言ってみれば、失敗だって、ああいったノーミスだって、すべてが偶然を含んでいると思うし、必然も含んでいると思います。それはやっぱり練習によって、どういうふうな練習をしてきたかとか、そこまでのコンディションづくりだとか、もっと言えば精神状態とか、環境とか、そういうものがいろいろ含まれていると思うんですね。それによって偶然というものが起こるし、必然的なものがちゃんと出てきたりする。でも、その必然の中でどれだけクリーンなジャンプを増やすかっていうのは、やっぱり一番は自分の練習でつくり上げられるものだと思うんですよね。

 

 すべての事象は日常の積み重ねの延長で、奇跡なんてものは存在しない。羽生結弦は自らのスケートを通じて、それを教えてくれた。あのヘルシンキにおいて、そして平昌五輪とそれに向かう日々の中で。

 一方で、こうも思う。「これって奇跡なんじゃないか」。そう思える場面に立ち会う瞬間こそ、人生における幸せではないかということだ。