これは2015年のNHK杯のときのお話。
自分の心を分析する力などすべてが、改めてすごい領域だなぁと驚きました。
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本番前日の記者会見。羽生は落ち着いた様子で現れた。そして冷静に、羽生独自のキーワードがあちこちにちりばめられた決意表明をした。
「ショートで4回転2本、挑戦させてもらいます。かなり一生懸命練習してきて、自分の中では手ごたえが凄くあります。試合のための練習をしてきました。そしてスケートカナダで得た悔しさもあります。すべてを克服するための工夫を自分の中ではしてきたつもりです。今すぐの結果にこだわるのではなく、この3週間で練習してきたものがどこまで出し切れるかが大事です。どこまで出せたかによって、ここまでの練習方法が良かったのか悪かったのか、見つける試合にしたいです」
すべての布石が整っていた。
11月27日、ショートの本番。冒頭の4回転サルコウを降りると、そのまま波に乗った。4回転トウループ+3回転トウループは、飛距離も流れもある。後半のトリプルアクセルも成功。大歓声を受けとめながら、ストレートインステップを踏んだ。・・・
パーフェクトの演技。得点は106.33点で、自らが持つ101.45点の世界記録を塗り替える大記録だった。
「不安は全然ありませんでした。このショートの『バラード第一番』はノーミス出来なくて苦しい時期がありましたが、『なかなかノーミスさせてくれないな』という楽しさがありました。そして実際に達成できた。とにかくこのプログラムを滑るのが楽しいです」
挑戦する「壁」が高いほど、重圧よりも楽しさを感じる。これが羽生の原点だった。
・・・
会見の最後には、12年のスケート・アメリカ以来、言い続けているキーワードを口にした。
「ショートで良い演技が出来たので、まずは五輪シーズンの時と同様に、ショートの喜びを噛みしめながら今日一日を過ごします。そしてリラックスしてから、明日のフリーに集中します」
羽生が蓄積してきたメソッドがパズルのピースのように組み合わされていた。
いったんショートの結果を喜んで消化したものの、106点越えのインパクトは大きい。羽生は翌朝、「不思議な緊張感」に襲われていた。ホテルから会場に向かうシャトルバスの中で、何が起きているのか自己分析する。
(どこかで経験した緊張感と同じだ……)
それは、ソチ五輪のフリーの日と同じ緊張感だった。
「あの時、五輪の金メダルを獲りたい自分がいた。そいつだけが、どうしても自分の中で見つけられなかった。それが僕にとっての『五輪の魔物』。五輪のフリーで、一体僕は何と闘い、この緊張は何によるものなのかが分からず、ミスを重ねていった。演技が終わってから『ああ僕は、良い演技がしたいんじゃなくて、金メダルが欲しくなっていたんだ』と気づいたんだった」
だとすると……。今自分の胸の中にある、不思議な緊張感も、同じような「欲」が原因になっているはずだ。
「そうだ。今僕は心の中で、『フリーで200点超えしたい』『合計300点超えしたい』『ノーミスしたい』って思っている。このすべてが、見えないプレッシャーとして降りかかることだし、演技の一つひとつに集中できなくなる条件じゃないか!自分は、結果への見えない欲が出ているんだ。結果を期待しているから緊張してる。そのすべてを認めよう」
すべての心の弱さを経験し、気づき、課題として蓄積してきた。そのメソッドをすべて使う時が来たのだ。
・・・
フリー本番では、3本の4回転ジャンプと2本のトリプルアクセルを含む、すべてのジャンプを落ち着いて成功させる。
「一つひとつ自分の気持ちをこめて、今までの練習、自分の身体を信じて跳ぶんだ」
パーフェクトだった。フリーは216.07点。総合322.40点。すべてが破壊的な世界記録だった。
・・・汗とも涙ともとれる滴が頬を伝っていた。
「本当に本当にすべてのものに感謝しています。練習できる環境を与えてくれた方々、コーチ、家族、トロントのみんな、仙台のみんな、ありがとう」
心が熱く震えるままに、言葉を発した。・・・
一人になると早くも、冷静な勝因分析が始まる。そして自動的に新たな課題を模索していた。
「これまでのすべての経験が、今日の演技につながった。今回出したショート106点、フリー216点、総合322点という数字が、自分自身へのプレッシャーになる。これに打ち勝つ精神力を身につけないといけない。これが僕にとって新たな壁になる」
すべてを昇華した、20歳最後の試合。それでも飽き足らず、自らをもうひとつ上のステージに押し上げようとする。・・・