気分がいい理由

記憶喪失になったぼくが見た世界 (朝日文庫)

 気分がいい理由、時間が経てば経つほどうれしくなるという感覚、それをこんなふうに改めてとらえたことなかったなと、読みながら思いました。

 

P211

 専攻科の仲間たちと、次の発表会の打ち合わせをしていると、となりにすわっていたテキスタイルを勉強している学生が、「そういえば坪倉さんて、ひとつ年上なんですね」と話しかけてきた。

 別に隠すことでもないから、一年生のときに留年したことを話した。

 すると彼は興味を持ったようでいろいろ聞いてくる。どうしようかと迷ったけれど、交通事故にあって意識不明の重体になったこと、病室のベッドで目覚めたときには、それまでの十八年間の記憶がなくなっていたことを話した。するとその学生は「冗談きついですよ」と、信じてくれない。それでもぼくの顔を見て、嘘を言っているのではないと思ったのか、「本当なんですか。そんなすごいことがあったなんて、話を聞くまでわからなかったですよ」と驚いた。

 そんな顔をされると、ぼくのほうこそびっくりしてしまう。以前のように、記憶がなくなったときの話について、あれこれと質問されたけど、事故をしたばかりの頃に感じたような嫌な気分にはならなかった。自分が普通に思われていたことがうれしくて、笑いながら質問に答えつづけた。

 時間が経てば経つほど、うれしくなってきた。大学から帰る電車の中で、どうしてこんなに気分がいいのだろうと思ったら、昼間学生に言われたことが、心の中に残っているからだとわかった。すこしニヤニヤしてしまう。

 今ここに生きていることに自信がもてた。

 

P248

 何年か前までは、昔の自分に戻りたくて仕方がなかった。どうしたら記憶が戻るのだろうと考え、高校時代と同じ髪型にしたり、事故の前に読んだ本やマンガを読み返したりした。

 今のぼくには失くしたくないものがいっぱい増えて、過去の十八年の記憶よりも、はるかに大切なものになった。楽しかったことや、辛かったこと、笑ったことや、泣いたこと。それらすべてを含め、あたらしい過去が愛おしい。

 今いちばん怖いのは、事故の前の記憶が戻ること。そうなった瞬間に、今いる自分が失くなってしまうのが、ぼくにはいちばん怖い。ぼくは今、この十二年間に手に入れた、あたらしい過去に励まされながら生きている。