このお話、興味深かったです。
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喜怒哀楽は、孔子の孫の子思がまとめたとされる『中庸』にはやくもあらわれる。
―喜怒哀楽ノ未ダ発セザル、之ヲ中ト謂フ
(感情がおきるまえの心の状態、これを中という)
子思は前五世紀の人物だが、この部分は後にかきたしたとする説もあるらしい。それにしたがえば秦末漢初(前二〇〇年)の文章だ。
そのすこし前にかかれたという『荀子』には、六字セットで、
―好悪喜怒哀楽
とある。まえの「好悪」にあわせると、「喜怒」と「哀楽」でわけるのだろう。
では「喜怒」と「哀楽」、それぞれの用例はないのだろうか。そうおもっていたら、たまたま撮影のあいまによんでいた『荘子』に両方でていた。
「喜怒」が登場するのは、サルたちのエピソードだ。サルつかいに「朝に三つ、夕方に四つエサをあげよう」といわれて怒るのだが、「じゃあ朝四つ、夕方三つは?」といわれたところ大喜びする。『荘子』は
―名実未ダカケズシテ喜怒用ヲ為ス
(ウソもいってないし、合計七つという事実もかわらないのに、喜んだり怒ったりする)
とつづけ
「人間も必死に正解をえらぼうとするが、正解も不正解も、本当はおなじものなのだ」
という。
「哀楽」のハナシはちょっとすさまじい。病気でカラダがひどく変形した人物が、親友に「運命をのろうだろうな」といわれるが、「いや、そもそも誕生したことも時のめぐりあわせだし、死ぬのもまた運命だ」とこたえ、こうつづけるのだ。
―時ニ安ンジテ順ニ処ラバ哀楽入ル能ハズ
(時のめぐりあわせや運命にしたがっていれば、哀しみも楽しみも心にはいりこむことはない)
喜怒哀楽は、ことなる要素を四つならべた
「花鳥風月」「冠婚葬祭」
タイプではなく、反対コトバを二つかさねた
「栄枯盛衰」「毀誉褒貶」
タイプの四字熟語とかんがえたほうがいいのではないだろうか。
・・・そもそもどうして「喜怒哀楽」が気になったのか、その動機がまったくおもいだせないでいる。
もしかすると原因は、最近よんだ
「自分の感情をありのまま受けいれることがウツの回復には大切です」
という本かもしれない(織田淳太郎『医者にウツは治せない』光文社新書)。いま、映画でうつ病患者を演じているのだ。
ポジティブにいきようとするあまり、自分の喜怒哀楽をついつい
「いい感情」「わるい感情」
とわけてしまう。そんなアタマのコントロールに対するココロの反乱―うつがもしそうしたものならば、
「ながれにさからわず、いいもわるいも、おなじものだとかんがえる」
『荘子』のおしえもまた、回復のヒントになるかもしれない。
シロウト解釈ではあるが『中庸』も、さきほど引用したところはこうつづく。
「感情がおきるまえの平静なココロ、これを『まんなか』としてすべての基本にしよう。感情がおきたあとも、それをどう表現するかという、そのときそのときの『まんなか』がある。こうした『まんなか、ほどほど』をみきわめれば、世界はうまくいく」
喜怒哀楽に順位をつけない。ただただうけいれ、しずかにみつめる―いま演じている役だけでなく、役者という職業にとっても大切なことなのかもしれない。