吉本ばななさんの、noteでの連載が文庫になったものを読みました。
さりげなく、ものすごく大事なことが書かれていました。
P168
そんなにていねいではなくっても、てきとうで。
毎日コンディションは違う、気分も違う。天候も違う。
それに合わせて今日は今日のことを考えるのが、生きているということの中でいちばん贅沢なことだ。
お味噌汁、ていねいに出汁をとって、具もたくさんにするときもある。
ポトフ、キューブのコンソメを入れて、全部大きくてきとうに切って、鍋にぶっ込むだけの日も。
友だちからしいたけをもらって、バター炒め、きのこ汁、炊き込みご飯としいたけづくしの日もある。
それは私が半分、その日と、そして未来からの流れが半分決めてくれるすてきな何かなのだ。
決して過去の経験が決めるのではないのだ。
セーターに小さなしみがついているのに外で気づいて、なんとなく冴えない日もあれば、全身ばっちりと決まっていてどんどん外に出ていきたいときも。
靴だけはこれと決めて、あとはでたらめでもいい日も。
山を歩くように、嵐の中を行くように、そのときどきに風向きを見ることができたら、それに合わせて日常を紡いでいけたら、それが人生を楽しんでるっていうこと。
そう思えた瞬間から、いきなりひとりお昼ごはんのポーク卵を完璧に作れるようになった。
卵のベタッとした感じがどうしてもできず、オムレツみたいになっちゃって下手だったんだけれど。
そんな形で恩恵を受けるなんて思わなかった。
近所にまだ沖縄そば屋があった頃、おじさんがほんとうにてきとうにベタッと作るポーク卵を作る手順のさくさく感が、さくさくにしようとすればするほどできなくて、ちょっと放っておくとか、ポークの脂に手伝ってもらうとか、理屈でいうとそんな感じ。
でもそれだけじゃない。
イメージだけして、さささっと。
ポーク卵とあまったごはんのランチ。
やがて夜にも好評な、冷蔵庫に卵以外なにもないときのふつうのメニューになった。
イメージすることがいちばん大切だったのだ。あとは遊び心が。