たしか杏さんの本に、この本のことが書いてあって、面白そうだったので読みました。
味わいというか雰囲気がどの文章にもありました。
P32
・・・われわれの仕事は、ココロをすこし「鈍」くしているくらいが本当にちょうどいいのかもしれない。
俳優は、基本的には「受身」の職業だ。約束した時間に、指定された場所にいき、あらかじめやれといわれたことをやる―。せんじつめれば俳優とはそうした職業だと、僕はおもっている。
もしだれかに「なきわめけ」といわれれば、こちらはワーワー泣き喚く。なきわめくタイミングは僕以外のだれかがきめたものだし、なきわめくときのコトバすら、たいていの場合きまっている。
「なぜ、なきわめくんですか?」
という質問は、基本的にはヒトリゴトだ。どんなことでも「ああ、そうですか」とうけいれなければ、ハナシはまえにすすまない。
またこの仕事は、しばしばおなじことを繰りかえす。舞台では毎日おなじ会話をくりかえすし、映像でも、あっちから撮ったりこっちから撮ったりと、結局なんども繰り返す。アップで、とおくから、またときにはうしろ姿で、こちらはワーワーなきわめくことになる。
まつこともおおい。映画などでは出番がくるまで半日くらい待つのはよくあることだ。出番がきても、スタッフさんがあれこれ作業するあいだ、こちらは準備をととのえて待っている。なきわめいて、十分くらいまって、それからまた、あらためて泣きわめくのだ。
ときどき監督や演出家のことが、神さまみたいにかんじられることがある。あわれで無力な俳優は、まるで神々のきまぐれに翻弄される古代ギリシャの人間のようだ。
さんざん演技をした結果、画面では豆粒くらいにしか映っていないこともある。
「べつに僕じゃなくてもいいじゃないか」
と、こちらは愕然とするのだが、かんがえてみれば、
「だれかそこにいて」
というときのために僕たちは雇われているのだ、ともいえなくはない。
もちろんこの仕事にはいろいろなヨロコビもあって、(説得力はあまりないかもしれないけど)僕はけっこう気にいっている。ココロのどこかを麻痺させてでも「そこにいる」のが僕たちのしごとなのだろう。
僕が演じる役のような、いわゆるニートとよばれるヒトビトも、もしかすると彼らなりの理由でココロを「鈍」くさせているのかもしれない。それが良いのか悪いのかは僕にはわからないが、俳優の立場からいわせてもらえば、
「そこにいて、なにもしない」
は、
「なにかする」
とおなじくらい大切なことだ。「そこにいる」ということが、ただそれだけで感動的なことだってある。