「確かに生きる」というタイトルが、あまりにもぴったりな内容で、読んでるだけで筋肉がしっかりしてくるような…こういう生き方も、ほんとにいろんな生き方があるなと思いました。
あとがきに、こんな風にかいてありました。
P246
・・・人生にリスクはつきもの。その度にリスクから逃げていたら一歩も前に進めなくなってしまう。挑戦を続けるのも怖いけれど、挑戦をやめて何もない自分に戻ってしまうほうがもっと怖い。いずれにせよ、怖いのならば前へ前へと進んだほうがいい。僕はよく迷うときに世界的な冒険家・植村直己さんの言葉を思い起こす。
「君たちに僕の考えを話そう。僕らが子供のときに、目に映る世界は新鮮で、すべてが新しかった。やりたいことはなんでもできた。そうだ。医者になりたいと思えば医者になれたし、登山家になりたければ登山家になれた。船乗りにだってなれた。なんにでもなれることができるんだ。ところが年をとってくると疲れてくる。人々はあきらめ、みんな落ち着いてしまう。世界の美しさを見ようとしなくなってしまう。大部分の人たちが夢を失っていくんだよ。
僕はいつまでも子供の心を失わずに、この世を生きようとしてきた。不思議なもの、すべての美しいものを見るために。子供の純粋な魂を持ち続けることが大切なんだ。いいかい、君たちはやろうと思えばなんでもできるんだ。僕と別れたあとも、そのことを思い出してほしい」(『マッキンリーに死す 植村直己の栄光と修羅』長尾三郎著/講談社)
これは植村直己さんが、マッキンリーで消息を絶つ直前にミネソタの野外学校で子どもたちに話した言葉だ。
・・・
・・・振り返れば、そもそも高校を停学になって山に出会い、今に至るまで何故、自分は山に登り続けているのだろうかということも分からない。・・・
・・・人間がある行為をはじめ、それを維持していく理由はもっと混然としていて一言で捉えきれるものではないと思う。何が僕をそうさせるのか。それは分かるようで分からないのだ。
ただ一つだけ分かることは、抽象的になるが、常に僕の中には、ある乾いた穴のようなものがあることだ。そして僕はその穴を埋めようとする自分を抑えることができない。その穴を埋める行為こそが僕の活動であり、人生であるといえる。つきつめて考えると、結局、こういう風にしか生きることができないということになる。
人生とは己を表現する、自己表現の舞台だと思っている。僕はただ生きてきた。ひたすらに、そして確かに生きてきた。それが今までの自分の全てだと思う、そしてこれからも。