成功とは?

宇宙を目指して海を渡る MITで得た学び、NASA転職を決めた理由

MIT卒業後、JPLNASAジェット推進研究所)を受けるものの採用の連絡は来ず、いったん帰国して慶應で教えていた時のお話です。

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 良い仕事にも家庭にも恵まれ、お金に困ることもまったくなく、世間一般のモノサシで測れば、この時の僕は恵まれ過ぎるほどに恵まれていたはずだった。僕はそんな生活に居心地の良さを感じ始めていた。
 だが、居心地の良さは感覚の鈍化でもあった。MIT卒のアメリカ帰りというだけで無用にちやほやされる。訛った英語でも喋れるだけで重宝される。そんなものに最初は違和感を覚えるが、すぐに忘れて居心地の良さに変わる。「慶應義塾大学助教」と書かれた名刺を渡したとたんに相手の態度が変わる。・・・
 もちろん、居心地の良さに安住せずに頑張り続けるための目標はちゃんとあった。三年間で十本の論文を書けば、僕は専任講師に昇進し、終身雇用を得ることができた。さらに何十本か論文を書けば准教授になることができ、そのまま十分な業績を積んでゆけば、四十歳か五十歳で教授になることができた。そして教え子からの尊敬と世間からの賞賛を浴びながら、六十五歳で退官し、何不自由ない余生を送ることもできるはずだった。そんな人生を「成功」と呼ばずして何と呼ぼう。
 だが、そんな未来を思い描く時、どうしても僕には空虚な感情しか湧いてこなかった。・・・僕の心の中には決して満たされないだろう何かがあった。それが何なのか、僕にはよくわかっていた。宇宙への情熱だった。
 ・・・それが満たされないことには、僕は決して満足して死ねないように思えた。・・・
 ・・・いや、あるいは・・・情熱もやがて忘れてしまうものなのだろうか。・・・情熱を失ったあとで、体面を取り繕うために、そんなものは昔から持っていなかったかのように振る舞う。仕舞いには「夢を見てばかりでは世渡りできないよ」などと嫌味っぽく学生に説教を始める。そんなつまらない歳の取り方をするくらいならば、いっそのこと華々しく失敗したほうが良いのかもしれな……。
 JPLから声がかかったのは、そんなことを考えはじめていた九月の終わり頃で、ちょうど三十歳になった直後だった。・・・
 あんなに憧れていたJPLなのに、いざオファーを受けてみると、本当に転職すべきなのか迷った。・・・
 ・・・JPLでは、大部屋に机を並べる、いわば平社員になる。・・・期限付きのポジションではないが、いかんせんアメリカなので終身雇用が約束されるわけではない。その時は慶應での研究がちょうど軌道に乗り始めたタイミングだった。そして何より、日本で働いている妻を残しての単身赴任だった。少なからざる人から止めておけと言われた。
 だが、誰よりも妻が、行ってきなさいと強く背中を押してくれた。後から考えてみれば、・・・頭では悩んでいても、心はそのずっと前から決まっていたのだと思う。論理は直感の前に無力だ。数週間の後、僕はJPLにメールを書き、オファーを受け入れる旨を伝えた。