ありがとうもごめんなさいもいらない森の民

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

ユニークなタイトルに目を引かれて読んでみました。こんな風習の中に暮らしている人がいるんだ、と新鮮で、価値観が心地よく揺さぶられました。

プナンは、ボルネオ島に暮らす、人口一万人の狩猟採集民、あるいは元・狩猟採集民とのことです。

 

P49

 ・・・プナンが、「~しなければならない/しなければならなかった(ateklan)」という言い方をすることは、実際にはほとんどない。私は、その語彙をプナン語として知っているだけで、ということは使うこともあるのだろうけれども、人々が使うのをこれまで聞いたことがない。

 言い換えれば、プナン人たちは、「後悔」「残念」という感情を持つけれども、「~しなければならなかった」「~したほうがよかった」という言い回しを用いて、反省へとは向かわないようなのである。後悔と反省は違う。後悔は悔やむことで、反省とは、後悔をベースにして、ああすればよかった、こうすれば適当だった、次回同じようなことがあったらこうしようなどと思いをめぐらすことを含む。

 すでに述べたように、「反省する」という言葉はプナン語にはない。・・・

 プナンは、後悔はたまにするが、反省はたぶんしない。なぜ反省しないのか。いや、その問い自体が変なのかもしれない。実は、私たち現代人こそ、なぜそんなに反省するのか、反省をするようになったのかと自らに問わなければならないのかもしれない。しかし、とりあえず今、プナンがなぜ反省をしないのか、しないように見えるのかについて考えてみれば、以下のふたつのことが考えられる。

 ひとつは、プナンが「状況主義」だということである。彼らは、過度に状況判断的である。その時々に起きている事柄を参照点として行動を決めるということをつねとしていて、万事うまくいくこともあれば、場合によっては、うまくいかないこともあると承知している。そのため、くよくよと後悔したり、それを反省へと段階を上げたりしても、何も始まらないことをよく知っているのである。

 もうひとつは、反省しないことは、プナンの時間の観念のありように深く関わっているのではないかという点である。直線的な時間軸の中で、将来的に向上することを動機づけられている私たちの社会では、よりよき未来の姿を描いて、反省することをつねに求められる。そのような倫理的精神が、学校教育や家庭教育において、徹底的に、私たちの内面の深くに植えつけられている。私たちは、よりよき未来に向かう過去の反省を、自分自身の外側から求められるのである。しかし、プナンには、そういった時間感覚とそれをベースとする精神性はどうやらない。狩猟民的な時間感覚は、我々の近代的な「よりよき未来のために生きる」という理念ではなく、「今を生きる」という実践に基づいて組み立てられている。