この部分を読んで、確かにそうも言えるかも…と思いました。
P234
ぱっと思い浮かんだことは、潜在意識が教えてくれる隠された真実である。・・・
デタラメOK、っていうのはそういうことだ。
だとすると……。
私はさらに考えを巡らせた。だとすると、前世や守護天使、あるいは霊のことを「本当かどうか」と考えること自体が間違った問いなのではないか。
そもそもそれは物質的に存在するかどうかを観察したり、検証したりできるものではない。
存在するとしてもそれは主観の中に、自分の思い込みの中にしかないのだ。だったら、自分が感じたものが「本当の前世なのか」「本当の天使なのか」と問うことには意味がない。
・・・
そんなことを考えていたら、私は突然気付いてしまった。霊の正体、前世の正体、天使の正体がわかってしまったのだ。
「あの、お話し中すいません」私はリンカさんとサヨコさんの会話に割り込んだ。
「実は僕、今オーラも見えるようになっちゃいました!」
「ホントですか?」二人は感嘆の声を上げる。
「見てあげますよ」お安い御用だ。「サヨコさんは茶色に緑が混じってますね、柔らかい光です。リンカさんはピンクと紫ですね。結構明るいですね」
「すごーい!どういう意味なんですか」リンカさんは訊く。
「わかりません」それはまた別の話だ。「ただ見えただけです」
要はイメージであり、思い込みであり、それがオーラっていうことでいいのだ。
P265
ここまで再三書いてきたように、野の医者たちに会う中で私が得た結論は、心の治療には「イワシの頭も信心から」のメカニズムが根深く埋め込まれているということだ。
つまり、ジェローム・フランクという精神科医が見抜いたように、心の治療はクライエントがいかに治療者を信頼し希望を抱くかにかかっている。
イワシの頭も信心から。信じる者は救われる。
ここまでは一応常識的な理解だと思う。
だけど、心の治療の秘密はその一歩先にある。
イワシの頭も信心から。確かにそれで病いが癒やされることもある。だけど、イワシの頭によって癒された人は、それからイワシの頭教の熱烈な信者としての生き方を始めることになる。
ここがポイントだ。
・・・
治癒とはある生き方のことなのだ。心の治療は生き方を与える。そしてその生き方はひとつではない。
心は体と違って、目で見たり、触ったりすることはできない。脳は見ることができるけど、心は見ることができない。心は傷つくことがあるけれども、それは体と同じように傷つくわけじゃない。心から血が流れることはあるけれども、あくまでそれは比喩だ。
心はその人の生き方に現れるしかない。だから、心の病や傷つきとは、生き方の不調にほかならない。私たちはこの世界の中でうまく生きていけないとき、心を病む。
そういう危機のときに、心の治療は、人に新しい生き方をもたらす。
その生き方はそれぞれだ。
精神分析なら悲しみを悲しめるようになること、ユング心理学ならその人が生きてこなかった自己を生きていくこと、人間性心理学なら本当の自分になっていくこと、認知行動療法なら非合理な信念を捨て去り生きていくこと、・・・
治療の種類によって、何が治癒であるかが違うのだ。だから、それらは互いに互いのことを非難し、嗤う。
「それは本当の治療じゃない」「治ったと勘違いしているだけだ」「もっと早く治せる」
互いが互いの治癒を偽物だと思ってしまうのだ。
だけど、事実としてあるのは、世間には本当に色々な種類の心の治療があり、多かれ少なかれそれらによって心癒やされた人がいるということだ。
・・・
・・・つまり、様々な生き方があり、様々な健康があり、そのための様々な心の治療があるのだ。