運命は決まっている?

美内すずえ対談集 見えない力 梅若 実(能) 甲野善紀(古武術) 大栗博司(物理学)と語る

運命は決まっていると同時に自由である、というお話です。

 

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甲野 「人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」。私が武術を研究していこうと思った直接のきっかけは、このことを本当にどうしようもなく実感したからなのです。21歳の時でした。確か、3月の初め頃だったと思います。あとはそれを「自分の体の感覚で確かめたい、真に感情レベルで実感したい」。そうすれば、今後どんな問題にも怯えず向き合えると思ったのです。

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 予言された未来があるということと、個人が努力することとは全く相反することであり、同時に扱うことはできないのに、多くの宗教にそのような矛盾した側面があります。その問題を色々と考えているうちに、量子論や、近代になって発達した物理学の世界にも目が向くようになりました。

美内 物理学ですか。宗教の問題から。

甲野 量子論の最近の展開などを見ていると、まあ、私が理解した限りですが、それはあたかも、宇宙の構造の本質を知りたいという興味に突き動かされた空海の世界のようです。

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 ・・・当時の私の愛読書だった禅の有名な語録『無関門』の第二則にある「百丈野弧」の話が、私の中でかぶってきました。この話はかなり長いですが、要点は「本当に修行した人は因果の法則を超えられるのか」という修行者からの問いに対して、「本当に修行した人は因果の法則を超えられる」とある住職が答えたところです。それを私なりに読み変えれば、「修行しだいでは運命も変えられる」というふうになります。ところが、「百丈野弧」では「因果の法則を超えられる」というのは間違っていたから、住職は五百生も野弧に落ちたままだ、ということになっています。では、やはり運命は変えられないのか、となりますが、結局『無関門』では、因果の法則を超えられるか超えられないかは、丁半のサイコロの目が丁半同時に出たようなものである、という同時性を説いています。

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 この話と、光が粒子と波動の二重性を持っているという説明が私の中で重なり、それを考えていくうちに、いつしか揺るぎのない確信が生まれたのです。それは、「ああ、人間の運命というものはもう完璧に決まっている。それはあたかも予定がびっしり書いてある紙の片面だ。しかし、裏は真っ白、つまり自由だ。でも紛れもなくそれは一枚の紙、そのどうしようもない矛盾した状態こそが事実だ」という確信です。

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 ですから、「もうこれからの自分の一生は、このことを真に感情レベルで実感するところまで追求してやろう」と思いました。そして、武術をやってみようと思ったのです。なぜ武術かというと、いくら「運命は決まっている」と思っていても、いざバシッと叩かれるとか、投げ飛ばされそうになれば、何とかしようとする自分がそこにいる。その「何とかしようとする自分」とは何か。決まっているといっても、「思わず動く自分」なり、何かを「思わずやろうとする自分」がそこにいるわけで、つまりは、そこで「思わず動く自分」を追求していけば、言葉で言えば、矛盾した運命の在りようも感覚で納得できるのではないかと思ったのです。