透明な器に

いとしい人と、おいしい食卓 「食べる女」のレシピ46

映画にもなった「食べる女」にまつわるエッセイとレシピが一緒になった本を読みました。

このくだり、大事なことだなと思いました。

 

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 そのころテレビドラマでは視聴率が重要視され始めていた。・・・

 居心地の悪さはつづいていた。・・・そんなころ、ふと気づいたことがある。私はもともと脚本を書くとき、取材とか資料調べはあまりしたことがなく、それよりは「何か」が降り注いできたとき、書き出すことができていた。でも居心地の悪い私には、その何かが降り注ぎにくくなっていた。細胞が滞ったように淀んでいる。細胞がサラサラしていなくては光も風も、どんなものだって、やってくることもそれを受け取ることも、通過させることだってできやしない。

 そう気づいたとき、私は服を脱いで裸になり、月光浴をした。どうしてそんなことをしたのか、自分でも説明できない。でも本当に、ひとり暮らしの部屋の窓のそばで、青い月明かりが射す床にうつ伏せになって月の光を浴びた。とても静かな気持ちになり、自分を感じた。青い月光を浴びる小っぽけな自分という生きもののカタチを。

 私の裡で、何かが変容している。滞って淀んでいた細胞がほどけて、月の光に晒されてサラサラしていく。自分が透明な器になっていくのを感じた。

 あの夜から、少しずつ回復していった。降り注いでくる何かに気づき、抱きとめることもできるようになっていった。でもテレビドラマには戻らなかった。その代わりに映画や小説やエッセイの依頼が多くなり、そのための文字を書き始めた。月の光に励まされながら、私は自分らしく在るための道を歩いていこうと思った。

 母が亡くなり、まだ居心地の悪さから脱しきれていないころ、信頼できる仕事仲間だった故・松田優作さんにこう言われたことがある。ふたりとも依頼される仕事の殆どを断ってばかりいて、内心では不安も抱えていた。

「ツツイさん、大丈夫だよ。心と体の声に耳を澄ませて、自分の歩幅で歩いていれば、きっと、大丈夫だ」

 友人の酒場の暗がりで、最後に会ったときの優作さんの輪郭は仄白いように発光していて、まるで月光を浴びているみたい。そう感じたことを、今もつよく記憶している。