人間だもの?

地球で生きている ヤマザキマリ流人生論

ヤマザキマリさんのエッセイを読みました。
ここは、みんながこんな感じなら、陰湿ないじめが起きなくて済みそうだと思ったところです。
とても人間らしいというか…(^_^;)

P180
 日本だと〝良い人〝の形容としてよく用いられる「人の悪口を言わない人」ですが、それが本当だとすると、イタリアには滅多に〝良い人〝はいないことになってしまうかもしれません……。
 というくらい、イタリア人は他人の噂が大好きで、常に誰彼かの話をするのを止められない国民のように思えます。
 それどころか「人の悪口を言わない人なんか、絶対信用しないね!」と言う人もいるくらいです。
 今は亡き祖母二人もですが、考えてみたら私の周りは皆、人様の噂話や悪口を口にすると、途端にいきいきするような人達でした。
 姑なんて放っておくと朝から晩まで人の話をし続けていますが、だからといって彼らが嫌な人なのか、質の悪い人なのか、人間として最悪な人なのかと言うと、全くそんなわけはありません。
 彼らは言いたくても言えないことを長時間じっくり溜め込んで、ついに耐えられなくなって吐露する、というのではなく、消化不良を起こさせるような言動をとられたら、瞬時にそれに対する不服を炸裂させる性質の人達です。だから悪意や怨嗟が〝発酵〝しない。
 しかも、よく聞いていると、相手の納得のいかない言動や行動を口にしつつも、どうしてそのような態度をとることになってしまったのかを言及したり分析したりするので、悪意というより、人間という一筋縄ではない生き物の生態を追跡する知識欲の旺盛さを感じることすらあります。
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 まあイタリア人はもともと、国政にも、ニュースにも、経済にも、人にも、まずは『疑い』という面倒なフィルターをかけるのが当たり前になっている人達ですから、自分が誰かについて噂したり、噂されたりする、なんてのは日常ではとても表層的な、取るに足らないことなのです。
 家の中にいても、レストランに行っても、学校に行っても、列車に乗っていても、眠っていても、どこかで誰かが誰かの話をしているのが聞こえてくる国、イタリア。
 素敵なイタリアの日常の側面を見せてくれるテレビ番組でも、楽しげにおしゃべりに興じる彼らの姿に「いいわねえ、楽しそうで」と思う視聴者も沢山いるでしょう。しかし彼らはその場で、熱心に誰かの噂話で盛り上がっている最中なのかもしれません。この国は、長く暮らせば暮らすほど、人間に対して過剰な理想を託さない、容赦も妥協もない日常の行動や会話から、彼らがどれだけ人間同士の結びつきにエネルギーや情熱を注ぐ民族なのかがうかがえてくるようになります。
「悪口」や「噂」が特別な威力を持たない世界。
 そのストラクチャー(構造)は、学校のような社会組織の中でも、どんないじめっ子がいようとも、いじめがいのさっぱりない人間になるうえでの、大きな、そして大事な要素のようにも思えます。

 ところでちょっと明日はブログお休みします。
 またすぐ再開します。
 いつも見てくださって、ありがとうございます(*^_^*)