水に流す

できればムカつかずに生きたい (新潮文庫)

だいぶ前に書かれた田口ランディさんのエッセイ。
文庫の裏に「ヘヴィでリアルな『私』の意見」と書いてある通り、なかなかにヘヴィな内容で…だのにぐいぐい読み進んでしまうのが不思議でした。
そんな中でここは、涼しい風が吹いてきたような、さわやかさを感じつつ読んだところです。

P138
 気功の研究家の上野圭一さんに言わせるとそれが「センタリング」なんだそうである。自分の中心を知ること。そして、自分の中心に意識を置けるようになると、外部からの刺激が加わってもその中心から自分が大きくそれることがなくなり安定するのだそうである。早い話、ゆったりと意識的に呼吸していると、自分の中心に居ることができるようになる……ということなんだろうか。・・・
 ・・・
 ・・・最近は、不愉快だなあと思っても、それはだいたい一〇分から二〇分で消えてしまう。非常に精神衛生上良い。これは忘れてしまうのでは決してない。日本語にちょうどぴったりの表現がある。「水に流す」って感じなのだ。
 ・・・
 川の上を、プカプカと壊れた下駄が流れてくる。それが自分にぶつかる。自分もなんとなく下駄の方に引かれる。でも自分には重心がある。いつしか下駄は自分を離れてどんどん下流へと流れていく。自分はまた元の位置に戻る。そういう感じだ。影響は受けるのだけど、自分もいっしょには流れない、外から来たものが去っていく。
 それで、私は思った。なんだそうか「こだわりを捨てる」とか「欲を捨てる」とか言うけど、それは「こだわらない」「欲を持たない」ということでは決してなくて、「一度こだわって、すぐ捨てる」ってことだったんだなあ、「一度欲しがって、でもその思いからすぐ離れる」ってことだったんだ。それならわかる。
 私は二二歳の頃「こだわらない」「欲しがらない」のが自我を捨てることだと思ってた。
 だから、そんなのつまんないって思ってた。そうじゃなくて、あらゆる刺激に反応しながら、でもそこにはとどまらない……って事ならこんな素晴らしい生き方ってないなあって思えた。そんな風になれたらいいなあ、って初めて思えた。反応するけどとどまらない。影響されるけど流されない。・・・
 ・・・
 いくら動じたっていいんだ。落ち込んだっていいんだ。びろーーんって、自分に戻って来れば。考えたらこれって、子供たちが日常的にやってる事だ。嫌なことがあっても、立ち直って自分に戻る。・・・
 最近は、ただ元の自分に戻って来るだけじゃ進歩ないんじゃないかな、なんてことを考えていた。・・・
 そしたらこの間、その答えを夢でもらった。
 ・・・
 五月一四日から二泊三日で戸隠に旅行して、戸隠神社を参拝してきたのだ。
 戸隠に着いた晩におもしろい夢を見た。夢の中に十九歳くらいの少年が登場する、その少年がこんな事を言うんだよね。
「やって来るものを受け止めながら手放していけばいいんだよ。どんなものでも自分にやって来るものはプレゼントだ。受け止めて手放せばいい。そうしていくと、受け止めた衝撃で流れが起こって自然にあるべき方に流れていく。自分でありながら、でも流されろ。自分の外から来るものは、全部、プレゼントだ」
 目が覚めて、なるほどなあ、と思った。この少年は他にもこんな事も言っていたっけ。
「どんな考え方もあっていい。間違いってのはない。どんな考え方も世界にグラデーションを作るためにある。どんな考え方も世界に濃淡を与え、世界を立体にする。だからどんな考え方も世界を描く点描の点だ」
 戸隠という場所は不思議な場所だ。
 戸隠神社、特に宝光社と奥社の杉の並木は幽玄で美しい。すうっと心が静まる感じがする。静寂な自然に触れると自分の中心にすとんと戻れる感じがする。