わたしの容れもの

わたしの容れもの (幻冬舎文庫)

角田光代さんのエッセイを読みました。
この方の想像力の向かう方向って、え?そっち?ということが多くて、そこがおもしろいです(笑)

P6
 このごろ霜降り肉がだめになってきた、おれなんか赤身がだめ、刺身は白身だけ、だとか、階段上がると息が切れるようになった、だとか、風邪ひくとびっくりするほど長引くようになった、だとか、人は加齢による変化を嬉々として語る。嬉々としていない場合もあるが、どことなくうれしそうに見える。いや、見えた。二十代のころだ。うれしそうだし、なんだか自慢げであるなと思って、若き日の私は年長者たちの話を聞いていた。
 年長者たちの話すその変化が、二十代の私はこわかった。肉好き、脂好きの私は、霜降り肉より赤身肉を選ぶようになるのが、刺身は白身ばかり食べるようになるのが、・・・
 以来、私はずーっと、それらの変化がいつ自分の身に起きるのかとびくびくしていた。
 しかし三十代になっても、三十五歳を過ぎても、変化はやってこない。・・・
 ・・・
 四十代になり、四十五歳になった。中年真っ盛りである。
 そしてようやく、やってきたのだ、変化が。「お」と思ったのは、四年前。四十歳を過ぎて、私ははじめて豆腐をおいしいと思ったのである。豆腐がおいしいってことは、これは、私がずっとおそれていた変化だ!ついにきたか!しかし、霜降り肉も好きである。
 私がおそれていたのは、前はだめだったAが好きになり、前に好きだったBが食べられなくなる、ということだったわけで、AもBもおいしく食べられるようになる、というのは、変化としてとらえていいのだろうか。
 そんなふうに迷ってさらに昨年、ついに私は霜降り肉より赤身肉を好んで食すようになった。・・・本当に、霜降り肉の脂が、きつくなるんだなあ……。あんなにおそれていたのに、いざそうなってみるとおそれは消えて、ただただ、感慨があった。
 ・・・
 霜降り肉より赤身肉を選ぶことを、どうして二十代の私はおそれていたのか不思議である。たぶん、私というものは確固たるもので、変わらないと信じていたのだろう。変わらないはずのことが変わる、そのことがこわかったのだろうと思う。アイデンティティの崩壊のようで。
 ・・・
 変わる、というのは、その前にはなんだか不安に思うけれど、実際はちょっとおもしろいことなのだと思う。引っ越し前はどきどきするけれど、引っ越したら意外にたのしかった、という感じ。しかも変化しているのは、自分自身。変化したことで、新しい自分になったように感じるのである。新しい自分が、古い自分より「できない」ことが増えたとしても、やっぱり新しいことは受け入れればおもしろい。焼き肉屋さんでカルビではなく赤身肉を注文している自分は意外でおもしろい。減らない体重は小癪だけれど、ここまで微動だにしないと人体の神秘を思う。
 ・・・
 この先、きっと更年期障害がはじまったり、思いもかけない病気になったりして、こんな変化はいやだ、と心底思うときもあるのかもしれない。でも、そうなった自分は今の自分より劣った存在ではなくて、ただ新しい自分なのだと思えるようでありたい。