偶然?

美女という災難―’08年版ベスト・エッセイ集 (文春文庫)

いろんな方のエッセイが載っている「美女という災難」を読みました。このタイトルは有馬稲子さんのもの。
こちら↓は「介錯人の末裔」という、こんなこともあるんだなと興味深かったものです。

P81
 メラ爺は、亡き祖母の弟、つまり私の大叔父である。姓が米良なので、いつしかメラ爺と呼ぶようになった。爺は北海道の小さな町役場を定年退職してから、山の監視員などをして悠々と暮らしていた。
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 現在、私の手元に、すっかり色褪せた新聞の切り抜きがある。「討ち入りの日、マチの話題に」という見出しで、五十代の爺が神妙な顔つきで巻物を読む姿がある。このメラ爺の祖先が、赤穂浪士事件にかかわっていた。
 吉良邸討ち入り後、大石内蔵助以下十七名は、高輪の熊本藩邸にお預けになっていた。義士切腹の際、堀部弥兵衛介錯を行なったのが米良市右衛門で、爺はその直系の子孫に当たる。
 実はこの話、昭和三十年代に初めてわかったことだった。それまで、細川家にかかわる家系だということはわかっていた。その判明した経緯が興味深い。
 昭和三十三年、私の曾祖母が亡くなった。続いて祖父が脳溢血で倒れ、その看病をしていた祖母がこれまた急死。爺にとっては母親と姉を相次いで亡くしたことになる。たて続けの不幸に、これは何かあるに違いないと、神憑りの婆さんの神託を仰いだ。
 お告げは、謎めいていた。
「獣を殺める者がいる。倒れている。それは壁にくっついている。だから悪いことが起きたのだ」
 何とも要領を得ないお告げに、みな頭を抱え込んだ。家中探したが見当がつかない。そのうち、米良家に何年も開かれていない神棚があることに気がついた。
 恐る恐る開けてみると、中から真白い雌雄のキツネの置き物が一対と古文書が出てきた。古文書には何が書いてあるのか、誰も読めない。当時、町内きっての碩学であった収入役に読んでもらって、右の一件が明らかになった。
 米良家には、女は神棚に触ってはいけないという家訓があり、父親が亡くなってから数十年、神棚は閉ざされていた。爺は、役場に勤める傍ら狩猟を行う。神棚は壁にくっついており、中から出てきたキツネは雌が倒れていた。お告げが解けた。
 それから毎年討ち入りが近づくたびに爺が引っ張り出され、地方のテレビに出演したり、新聞の取材があったり、爺はすっかり街のスターになってしまった。
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 平成十七年、私は偶然にも近世史家の佐藤誠氏の知遇を得た。・・・さっそく私は、米良家に埋もれていた古文書を借り受け、佐藤氏に披見した。佐藤氏はこの文書を翻刻するとともに、系譜を作成してくれた。・・・
 その後、爺の伯父が神風連の乱(明治九年に熊本で起こった不平士族の反乱)で自刃し、翌年さらにその叔父が西南戦争で戦死した後、爺の父親が屯田兵として北海道に渡ったという経緯がわかった。・・・
 そんな佐藤氏から、今年(平成十九年)になって思いもかけない誘いを受けた。堀部安兵衛のご子孫にお引き合わせしましょうというのだ。安兵衛は弥兵衛の子で、親子で討ち入りに参加している。
 私は約束の一時間以上も前から、ホテルのロビーで落ち着かない時間を過ごしていた。「すべてオマエに任せた。よろしく頼む」と爺は暢気なものである。
 会ってまず、なんと挨拶したらよいものか。十年、二十年ぶりの再会ならまだしも、三百年ぶりの対面である。しかも首を刎ねた相手との再会と思うと複雑な気持ちになる。
「元禄十六年の切腹の節は、御役目とはいえ貴殿の父上の首を刎ね……どうもすいませんでした……」
 何やらおかしい。かといって「父君は、見事な最期でありました」と適当なことをいうわけにもいかない。
 そうしている間に、佐藤氏がにこやかに現れた。紹介されたのは、目の前のソファーにいた初老の男性だった。・・・
「あッ、どうもその節は、あの、お役目とはいえ、どうも……」
 何日も思い悩んだ米良家名代の口上は、通夜のお悔やみとなった。
「いえ、いえ、こちらこそ大変お世話になりました」
 と満面の笑みでいわれたときには、救われる思いがした。現代の安兵衛殿は、博学多才で上品な人であった。
 その後、しばらく歓談したのだが、その間何となく落ち着かない。この目の前の人から、よろしくお願いしますと首を差し出されたら、はたして今の私に斬れるだろうか、などという妄念が頭を掠めていたとき、
「……数年前、とうとう私もクビを斬られましてね」
 といいわれ、ギョッとした。何のことはない、定年退職の話だった。
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 実は今回の対面、私の都合で二度も日程を変更していた。結局二月四日に落ち着いたのだが、この二月四日こそまさに三〇四年前の介錯の日だったのである。そのあまりにもでき過ぎた偶然に、私たちは顔を見合わせた。
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