よしもとばななさんのエッセイを続けて読みました。
これは「ほんとうの優しさってなんだと思いますか?」という質問に対する答の一部です。
P15
私は、その人にとっての優しさの定義を決定するのは「育ち」だと思います。
親のしたように、自分の環境でそうであったように。
もしくは親がしてくれなかったこと、自分の環境になかったもの。
…を人は「優しさ」と判断するのであって、まさに人それぞれです。たとえ愛し合う人たち同士でも、家族のあいだでも、そういう理由で食い違うからこそいろいろな問題が起きるのでしょう。
私は下町の育ちなので、失敗やだめな感じのこと、ついてないことが起きたときは、あからさまに言うのがルールだし、優しさとされていました。
家業が傾いている人には「おっ、借金の帝王が来たぞ!」と声をかけたり、奥さんが亡くなって再婚した人には「若い嫁さんもらって肌つやもいいな!」っていう具合に。
そしてもちろんその人にこっそり仕事を回したりするし、新しい奥さんがなじみにくくて気まずくても一気に場に溶け込みやすくしたり…はげましたり、なぐさめたりする気持ちも奥底にいっしょにこめるわけです。
下町を一歩出たら、これがとんでもないことだったと知りましたが、あとの祭りでした(下町にふさわしい比喩だ)。
私は下町気質が直らず、いろんな人に泣かれ、怒られ、絶交されて、それでもそのタイプの優しさがどこかにあるこの感じは直らないのです。
・・・
三十すぎて大きな失恋をして体を壊した私を、一週間ずっと泊めてくれた家がありました。ご家族は私といっしょにごはんを食べ、ひまなときはいっしょに出かけ、夜は放っておいてくれました。それは、私にとって実家では得られなかったタイプの生涯忘れられない優しさです。実家で得られないから外に求めたとも言えるけれど、そういうことも人生には必要です。
また、私は「よしよしとなでる」ような優しさに飢えていて母もそのタイプなのですが、父と姉はもっと武骨で、そんなことされるとかえって気をつかってしまうからただひとりにしてほしいような人たちで、家族の中でもそのファンタジーには違いがあります。
でも、ここでは、相手に合わせるべきではない気がする。
自分が優しさだと思うことを、ある程度の線をひきながら素直にする、それがいちばんです。自分がお礼を言われたり、気分よくなることは期待しないで、できる範囲で。