錬金術がつかえなくなる場合

快の錬金術―報酬系から見た心 (脳と心のライブラリー)

うつや強迫の方は、自分がだめだからこうなったのだ、とよくおっしゃいます。
そう思ってしまうのも症状の一つですが、この部分の説明も参考になるかもです。
自分のせいじゃなくて、今は病気だからそうなっちゃってるんだとわかってもらえるでしょうか…?

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 ところでこの種の快の錬金術は、誰でもある程度はその能力を持っている。私たちがある喪失体験を持った際に、それを諦め、忘れさせてくれるのである。そのおかげで、もしその喪失が将来埋められた際には、それを獲得として感じ取るようにもなるのだ。
 たとえばあなたが十万円入りの財布をなくしてしまったとしよう。通勤の途中で落としたと考え、もう絶対に出てこないと諦めてしまったとする。その財布が一週間後にソファーのクッションの隙間から出てきた時は、「やったー、十万円ゲット!」となるだろう。喪失は獲得へと変換されたのだ。
 ただしこのような変換を行えるためには、ある程度の精神の健全さが必要である。少なくとも、うつや強迫を伴っていないということは大切だ。人間はある程度の心のエネルギーがあれば、失ったものを諦め、「しなければならない」ことを「しないと不安なこと」→「すると安心できること」→「すると喜びを感じられること」へと、さほど困難なく変えることができる。特に「しなければならない」ことがそれほど苦痛なことではなく、「多少面倒だ」程度のことなら、いったんそれに集中すると案外スムーズにできたりする。するとその行動自体の快を増すこともできる。最初は気乗りしなかったウォーキングも、歩き出したら案外楽しい、ということもあるだろう。そして歩き終わった後は「今日もルーチンをこなしていい気持だ」となる。
 しかしこの種の芸当が一切できなくなるのがうつ病なのだ。うつになると、普段面倒に感じていたことなどは、およそ実行不可能になる。始めても少しも楽しくない。集中力により乗り切る、という力も残されていないのだ。
 強迫神経症もこの種の変換を難しくする、ある行動(強迫行為)をしなくてはならないという思考が、理由もなく突然に襲ってくる。ウォーキングの途中に目に入る電信柱を数えないと不安になり、歩道のタイルを一定の順で踏まないではいられなくなり、数十メートル歩くだけで疲弊しきってしまう。強迫は、自分の生活にかかわる行動の多くが、まさに「しなくてはならない行動」になってしまうのである。
 快の錬金術には、個人の工夫や創造性も大いに貢献する。ウォーキングをした後は、カレンダーに大きな丸を付ける、でもいい。・・・家族に自慢する、でもいい。・・・最近だったらツイッターで呟くという方法もあるではないか。
 このような能力を発揮しているのは、主として前頭葉である。特に後背側前頭前野は、将来にわたる行動のシュミレーションに携わる部位である。この部分は自分がある事柄をどのように実行していくかのタイムテーブルを作成することに貢献する。錬金術師の住処はここだったのだ。