所を得ない

運のつき 死からはじめる逆向き人生論

居場所がないと感じながら生きている人って、予想よりたくさんいそうだと、ここを読んで思いました。

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 私自身の人生をその意味で「主観的」にいうなら、ほとんど一言になってしまいます。「所を得なかった」。
「所を得る」という言葉を、いつ知ったか、覚えてません。でもなんとなく自分が「所を得てない」ことは感じてました。世の中に、自分が「そこにいて当然だ」と思える居場所がなかったということです。・・・
 ・・・歴史上の人物でいうなら、「所を得ない」という意味では、芭蕉西行がそうだったんじゃないかと思います。なぜ日本中をウロウロ歩かなきゃならなかったかといえば、要するに「いるべきところ」がなかったからでしょう。・・・
 その根本にあるのは、なにかの感情、思いですよね。その逆を帰属感といってもいいかもしれません。・・・芭蕉西行には、その種の帰属感がないんだと思います。
 現代の若者なら、たとえ会社に勤めていても、そんな帰属感なんてない、というかもしれません。それはそれでいいわけです。私もそうでしたから、帰属感がなきゃならないということにはならない。でもそれがないと、落ち着かないんです。
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 むろん自分がそこにいても、追い出されるわけじゃない。ひょっとすると歓迎すらされているかもしれない。でもそこは「自分が本来いるべきところではない」。そういう感じが心のどこかに潜んでいます。
 この感覚は、幼稚園のころからありました。自分も園児で、その幼稚園に通っているんです。それなら自分がそこに「帰属して」いい。ところが素直にそう思ってないんです。病気がちで、休んでばかりいた。それが大きいと思います。だから数日休むと、もう行きたくない。友だちと離れてしまった気がする。そもそも行くのが恥ずかしいんです。逆にいえば、「園児なんだから、行って当然」、その気持ちがないんです。これって、いまでいう登校拒否じゃないんでしょうかね。
 その気持ち、あるいは「気持ちのなさ」がどこから生じたか、わかりません。幼児として育ってくる過程で、なにかあったんでしょうね。具体的な事件があったというより、日々の生活のなかで、親を含めた周囲の環境と、自分の性格との関係から、そうした落ち着きの悪さが生まれたというしかありません。
 大げさにいうと「私なんかが生きてここにいて、そのためみなさまにご迷惑おかけして、まことに相済みません」という感覚なんですよ。いまだにそういう気分が残ってます。「なにいってんだ、でかい面しやがって」。そういわれそうな気もしますが、それは「単なる客観」です。私の気持ちは覗けないでしょうが。
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 だから素直に行動している人を見ると、なんとなくうらやましいと思いました。妙な表現ですが、そういう人たちは、後ろ髪をひかれることなく、みんなに混ざっているように見えます。そこには変な反省、遠慮がない。自分が「そこにいて当然」と思っている。その背後には、もちろん周囲の人々、世間、社会が「自分を受け入れて当然」という思いがあるはずです。・・・
 私が医学を学んだのに医者にならず、科学を仕事にしたのに科学者にならなかったについては、これが大きいんです。これを短くいえば、「変わり者」、「一匹狼」です。それなら世間なんか相手にしない。そう思うかといえば、思いません。人一倍、世間を気にしているんだと思います。それでなければ、本なんか、書きません。


 ところで、明日からまた少しパソコンから離れてしまうので、ブログお休みします。
 週明けに再開したいと思ってます。
 いつも見てくださって、ありがとうございます(*^_^*)