作品が生まれたとき

やなせたかし 明日をひらく言葉 (PHP文庫)

あの歌詞、あの絵本、あのアニメはそんな風に生まれたんだ…と印象的でした。

P43
 三十四歳で独立したあと、いろんな仕事をして、食べるのには困らなかったが、漫画家としては無名なままだった。
 ・・・「なんでぼくは世に出ないのだろう。世間は見る目がないのではないか」とやるせなく、さびしかった。
 それでも弱みは見せず、仕事もないのに徹夜で詩を書いたり、絵を描いたりしていた。何かしていないと、ますます取り残された気持ちになってしまうからだ。
 四十二歳のときのその日も徹夜していた。退屈し、子どものころにやっていた遊びを思い出して懐中電灯を手のひらに当ててみた。
 すると、血の色がびっくりするほど赤く透けて見える。あんまりきれいで見とれてしまった。これほど絶望しているのに、体には赤い血が脈々と流れているんだ。心は元気がなくても、血は元気なんだなと、自分自身に励まされたように感じた。
 不意に「てのひらを太陽にすかしてみれば」というフレーズが頭に浮かび、それがひとつの歌詞にまとまった。この歌は、自分を励ます気持ちから生まれたのだ。

P51
 めぐり合った仕事を誠実にやる。たとえばアメをつくるなら、おいしいアメをつくることだけを考える。そうしていれば、道は自然に開けていくものだ。
 ・・・
 ぼくの最初の絵本になった『やさしいライオン』も、もとはラジオ局のディレクターから、「予定していた脚本家の原稿が遅れて、番組に穴が開きそうだ。無理を承知のお願いだけど、明日までに三十分ドラマを書いてくれないか」と頼まれたことがきっかけで生まれた。
 こういうときは「バカにするな」と怒らないで、一歩前に出るほうがいい。ぼくは「早書きの腕を見込まれたんだ」と考えて、徹夜で取り組んだ。まあ、難しい仕事だとかえってやってみたくなる、ちょっと困った性格のせいもあるのだが……。
 引き受けたことで大きなチャンスが生まれたのは事実だ。

P55
 アンパンマンのアニメ化も、決してスムーズに進んだわけじゃない。絵本の人気が出てから、企画は何度も持ち上がった。でも、企画会議に出すと、上層部に反対され、つぶれてしまうのだ。
「どうしてもアニメ化したい」という熱心な若いプロデューサーが、ねばり強く企画を出し続けてくれたおかげで、やっと企画が通った。彼は幼稚園で、ボロボロになるまで読まれた本を、子どもたちが奪い合うようにしている光景を目のあたりにして、「アニメ化しても大丈夫」と自信があったようだ。
 ところが、与えられた放送枠は、月曜日の午後五時から三十分間だった。視聴率が平均二パーセントという最悪の時間帯だ。「この時間なら、視聴率はもう下がらない。上がるだけだ」としょんぼり思うしかなかった。
 だが、放映すると視聴率はいきなり七パーセント。翌年、文化庁の子ども向けテレビ用優秀番組に選ばれた。
 ようやく人気番組を世に出すことができたのだ。
 このとき七十歳。古希を迎えていた。「せめて一年は続けたい」とスタートしたのが、もう二十年以上続いて、ぼくは九十歳を超えるまでになった。