般若心経

「本質に気づく、目覚めのコース」http://www.aqu-aca.com/seminar/towakeup/の参加者の方が紹介してくれた、玄侑宗久さんの「現代語訳 般若心経」。とてもわかりやすく、メモしておきたいところが満載でした。
現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))
 まず「般若心経」が難しいと思われている理由と、その体験はどんなものかという辺りのことが書かれていたところ。

P9
『般若心経』は難しい、と思われている。
 たしかに本文二百六十二文字の内容は、あまり類例がないほどに凝縮している。
 きちんと学ぼうと思えば、十八界を初め、四諦や十二因縁など実存的苦悩への仏教的洞察、また人間の認知機能に対する分析なども知らなくてはならないし、さらにはこのお経ができる頃までの仏教各派の議論なども踏まえなくてはならないだろう。
 大袈裟に云えば、これは『大般若経』六百巻のエッセンスとも云えるわけだから、難しいと感じるのも無理はないのである。
難しさのもう一つの側面は、この経典が手頃な長さであるせいもあって、解説書が山ほどあることだ。しかもそれらは、じつにさまざまな観点で書かれている。学問的な研究書も無数にあるし、場合によっては宗派的な特徴を感じる解説書も多い。最近では全くほかの学問分野の方による訳書まで出ている。いったい何が本当の『般若心経』なのか、という難しさも伴うのである。
 しかし何よりこのお経の難しさの本質は、人間の理知を超える体験をしようというところにある。
 難しいのにこれほど読まれ、唱えられているのは、じつにそのことが人間にとって極めて重要な課題であるせいだろう。

P14
「般若」の捉える「全体性」は、無常に変化しつつ無限の関係性の中にあり、それはいつだって絶えざる創造の場である。そこでは、我々の成長に伴って確立されるという自立した「個」も、錯覚であったと自覚される。そして自立した「個」を措定していたことこそが「迷い」や「苦しみ」の元であったと知るのである。
 おそらく、世に云うお釈迦さまの「悟り」や「目覚め」の内容とは、主にはそういうことではなかったかと、今の私は思っている。
「個」の錯覚が元になった自己中心的な世界の眺めは、このもう一つの「知」である「般若」の実現で一変するのである。絶えざる変化と無限の関係性が「縁起」として実感され、あらゆる物質も現象も、「空」という「全体性」に溶け込んだ「個」ならざるものとして感じられる。そのとき人は、「涅槃」と呼ばれる究極の安らぎに到り、また「しあわせ」も感じるのではないだろうか。