エクスカージョン・セミナーhttp://www.aqu-aca.com/seminar/excursion12/に、クォンタム・セルフというエクササイズがありますが、クォンタム・セルフってこういう風にも説明されるんですね。
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量子物理学では、「いわゆる無我、真我の状態を発見したとき、その先に続くステージは創造性のなかにある」と考えます。
これまで私たちは、"わたし"という認識(エゴ)とはどういうものか、お話ししました。
"わたし"のもっている物語の筋書きや<性質>について話しましたね。
悟りのクォンタム・リープを経たあとでは、"わたし"に関するそのような認識がまったくなくなってからっぽになります。
量子物理学が言っているのは、「その無我の状態を、自分の在り方のなかで具現化しなければならない、示さなければならない」ということです。
だからこそ、『十牛図』には悟りを超えた段階の絵があるのだと考えられます。
それらの段階は、いわゆる「無我の境地」の自分を実際に現しています。
私たちは、この「無我の境地」の自分を<クォンタム・セルフ(量子的自己)>と名づけています。
クォンタム(量子的)とは、「固定されていない」という意味です。
ですから、<クォンタム・セルフ>とは、たいへんダイナミックで固定化されていない"わたし"だと考えられるでしょう。
ただし、この"わたし"をココというひとつの場所に固定することはできません。
それが何であるか、私には定義することはできません。
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固定しているものなら確かに定義することができますが、常に変化し、その変化を瞬間的にしか経験できないことをどのように定義することができるでしょう。できませんね。・・・
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それでは、「悟りの経験を超えて成熟していく」とはいったい何を意味するのでしょうか。
悟りの経験をしたとき、かつて「眠り」と呼んでいたことの質が変わってきます。
悟りの経験後は、眠っているとき、私たちは全体とひとつになっています。
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そして、私たちがこのような「大いなる眠り」から目を覚ましたとき、それは確かに自分が生活しているコミュニティでの自分の行動にも反映されるでしょう。
たとえば、行動のなかに特別意識や特別さというものがどんどんなくなっていきます。
いわば人生の流れと共に生きていくようになる。自分自身もその流れの一部になっている感じです。
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そして、もうひとつ、最終的な段階では、あらゆる<可能性>が許容されています。
ですから、「これは天国のような<可能性>」とか、「これは悪い<可能性>、よい<可能性>」という区別化がまったくなく、すべての<可能性>があってそれでいい、という状態です。
そこには、自分の好みというようなものはありません。
『十牛図』においては、この人がコミュニティの何でもない(普通の)一部になっていて、コミュニティの人との間に隔たりや特別さがまったくありません。