ああそうだな〜と、ここは理解できた気がする(苦笑)ところです。
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いいかい。言葉には二つの側面があると考えてほしい。ひとつはシニフィアン、つまり音で、もうひとつはシニフィエ、つまりイメージ(=意味)だ。
・・・
この「象徴界」の中で、シニフィアンは相互に隠喩的な結びつきを持っている。それはイメージを通じた結びつきだったり、あるいは音が似通っているための結びつきだったりと、さまざまだ。でも、「音」による結びつきは、ことのほか重要だ。なぜなら、僕たちはこちらのほうは、しばしば忘れてしまっているからだ。言葉のつながり、つまり「連想」が、思いがけず不自由だったり、意外な連想が飛び出してきたりするのも、こうした「音」による結合が関与してくるせいだったりする。……うーん、ちょっとわかりにくいね。
フロイトは、こういう音だけ似通った言葉の結びつきが、僕たちの意識に大きな影響を及ぼしていることを発見した。「日常生活の精神病理学」から、例を一つだけ引いておこう。あるときフロイトは、自分の患者にジェノバの近くにある保養地を紹介しようとして、どうしてもその名前が出てこなかった。その土地についての、ほかの記憶はしっかりしているのに、地名だけが出てこないのだ。やむをえずフロイトは、患者を待たせて妻に尋ねた。
「ほらなんだっけ、N先生の診療所があって、例の奥さんが長いこと療養してたあそこの土地は……」
「忘れちゃうのも無理ないわ。だってネルヴィ(Nervi)っていうんですもの」
要するに、フロイトは日々つきあっているNerven(神経)にいい加減うんざりしていて、それと似た音の土地の名前まで抑圧してしまっていたわけだ。こういう「ど忘れ」や「言い間違い」の例は、フロイトの本にたくさん出てくる。
連想とは関係ないじゃないかって?いやいや、そんなことはないよ。ここで大切なことは、人間は必ずしも「忘れたいこと」だけを忘れるんじゃあないってこと。むしろ忘れられるのは、一番忘れたいことと、たまたま発音が似通った単語の方だったりするわけだ。つまり、忘れたかった単語と、実際に忘れられた単語とは、意味じゃなくて発音を介してつながっているということだ。・・・
・・・普通の会話とかなら、だいたい言葉の「意味」の側面が大事になってくる。でも、表現の分野では、意味よりも音が前に出てくることも多いんだ。そして、「音に意味を従わせることの快感」というものが、そこには確実に存在する。
もちろん、これをはっきりと指摘したのもフロイトだ。彼は「機知ーその無意識との関係」という論文で、なんで駄洒落がおかしいのかを、大まじめに分析している。・・・
フロイトは・・・機知によって語られる言葉には、ふつうなら抑圧されて出てきにくい内容が、チェックされずにすっと出てきやすいのだと主張する。こうして抑圧を取り除くことは、緊張の解放につながり、笑いをもたらすわけだ。