ともいきの思想

「ともいきの思想」という本を読みました。
ラコタを中心にフィールドワークされてる研究者の方が書いた本です。
そもそも別の研究をしていたのに、中上健次さんのファンで中上健次さんに会ったことから、ラコタにつながっていった・・・という著者の経緯もおもしろかったです。

「私はインディアン社会のさまざまな人たちとの縁を紡いできた。その過程で、美が醜に変わるとき、醜が美に変わるときを見た。美と醜、叡智と暗愚、勤勉と怠惰、愛と憎しみ、敬意と嫉妬、豊かさと貧しさを経験した。そのどれもが人間社会における普遍の要素でありながら、これほどまでにそれらが凝集した場所は、保留地の他にない。」

と書かれているとおり、光も影も濃い内容でした。

印象に残ったところをご紹介したいと思います(^^)

ともいきの思想 自然と生きるアメリカ先住民の「聖なる言葉」 (小学館101新書)

P86
 ラコタ族の名前には、ショートブルやレイムディアのように身体的特徴を表すものも多い。ちび(ショート)だから何だ、足が不自由(レイム)だから何だという姿勢以前に、われわれから見た「規格外」は、単なる身体的特徴としか考えられていない。
 これも、「人はそれぞれの歌を持つ」伝統のなせるわざだろうか。それぞれの人間は、それぞれに違うという人間観が徹底している。幼いときから「それぞれの歌」、つまり個性を押さえつけない、大人になったらそれぞれの歌を伸びやかに歌えるように育てるのがラコタ流だ。

P90
・・・ラコタの四つの美徳の一つである「寛大」は、精神の寛大さだけでなく、物惜しみしない気前のよさを含んでいる。ちなみに残りの三つの徳は、「敬意」「知恵」「勇気」である。

P94
・・・長老は続けた。
「だいたい、やつらは、ものを永久に自分のものだと勘違いしておる。他人にやった後までも、自分がやったものと考えておる。ものは人のもとに必要なだけ留まっているだけじゃ。他に用ができれば、他のところへ行くのじゃ。ギブ・アウェイでもらったギフトは、自分のもとを離れるとき、本当の贈りものになるんじゃよ」

P105
「私のために、お前がやれることがまだあるよ。私の葬式が終わって一年の間、一つだけいいことを続けておくれ」
 それはラコタの習慣だ。親しい人が死んだら、喪に服す一年の間に、新しいよい習慣を身につけるのだ。それが死者への何よりの供養になる。

P251
・・・あるとき私は、お金をあげなくても、借金を断っても、彼らの態度がぜんぜん変わらないことに気づいた。友人の借金の申し出を恐る恐る断っても、その前と後で彼女の態度が変わることはない。断った後でも私が何かを頼んだら、時間と事情が許す限りで彼女は私の求めに応じてくれるだろう。
 私ははたと気づいた。結局お金に振り回されているのは自分であることを。金は天下の回りもの、今日の一〇〇円はないけれど、人生全体では足りることになっていると考える鷹揚さが彼らにはある。お金を貸さなければ、ものをあげなければ友情にひびが入るのではないかと考える私は、結局モノという尺度で相手を計っていたのだ。・・・仕事にしても狩りの獲物のように、ある日もあればない日もある。ある日は人に分け与えるし、ない日はある人から回ってくるだろう。世界は聖なる輪になっていて、巡り巡って足りるようになっている。