自分?

まわりみち極楽論―人生の不安にこたえる (朝日文庫)

きのう本を整理していて、ずいぶん前に読んだ玄侑宗久さんの本を手に取りました。
しおりが挟んであったところを開いたら、さっきブログに書いたことと違う視点で、この見方もあるとバランスとれるかな?と思うことが書いてあったので、書きとめておきたいと思います。

P34
 自分を見つめるとか、向き合うとか、よく言いますが、なんとなく鬱陶しいですね。正面から向き合っても、鏡の中で自分も身構えていますから、あまりたいしたものは見えませんし………。
(中略)
 人は自分にも他人にも一貫性を求めてる。その一貫性を保証するように作られるある種の器が「物語」なんですね。
「物語」がないと、自分も他人も把握することができない、というのは確かです。だから全体ではないと知りつつも人は何らかの「物語」によって自分や他人を摑まえようとする。
 別な言葉で言えば、それは「分かる」ということですね。「分かる」というのは「分けた」結果、断面が見えた、ということです。だから飽くまでも切り口が違えば違った姿が見えるはずです。
(中略)
他人はいつだって自分の一部分を分断して「分かった」と思いたいわけですから。だけど自分くらいは、自分の中の無限の可能性を信じていた方が楽しいじゃないですか。だから自分のことはとことん分からないと思ってたらいいんじゃないでしょうか?
 自分を変えるんじゃなく、新しいことを始めよう
・・・そうすれば自然に人は変わります。
(中略)
あまり「正しさ」を目指さないことですね。「正しさ」というのは、人を苦しめるだけですし、自分も結局苦しくなります。何が正しいか分からないと思い定めて、むしろ「楽しさ」を目指してみては如何でしょうか。
 新しいことをどんどんやって、しかもそれを楽しんでいく。「自分自身と向き合う」なんて言ってないで、そうしたほうがいいと思いますよ。人間、死ぬときにようやく「自分自身」が定まるんじゃないでしょうか。