33の悩みと答えの深い森。

33の悩みと答えの深い森。ほぼ日「はたらきたい展。2」の本

 はたらくことに関する質問に、様々な方が答えた本。興味深かったです。

 

為末大さんの話

P57

―あの、スポーツの世界では、よく「イメージすることが重要」だと言いますよね。

 

為末 ええ。イメージトレーニングのことですね。

 ・・・

為末 スポーツにおける「イメージトレーニング」の効果は、粒度の細かいそれをやっておくことで「はじめて出合う状況」をつくらない、似たような状況に直面しても冷静でいられるということなんです。

 

―一度「この展開」を想像していたかどうかって、かなり大きいですよね。

 

為末 わたしの場合は、銅メダルまでは「色つき・音つき」でイメージできたんです。まるで「8K」の映像みたいに、ありありと。

 

―おお。

 

為末 でも、いざ「金メダル」を獲ろうとしたら、うまくイメージできなかった。当時フェリックス・サンチェスというチャンピオンがいたんですけど、「自分が彼よりも前に走っている姿」を頭のなかで思い描いても、まったくリアリティがないんです。色もないし、音もしていなくて……。

 

―「金メダル」が「モノクロ」だった。

 

為末 結果として、現実の場面でも金メダルを獲ることはできませんでした。身体能力の限界を超えた場面はイメージできないのか、イメージできないものには身体が追いついてこないということなのか……どっちが先なのかはわからないですけど。で、同じようなことって、今の仕事でもたしかにあると思います。

 

こちらは川村元気さん。

P324

―川村さんは、「物語」とは、人間にとってなぜ必要なんだと思われますか。

 

川村 物語がないと、人は「理解できない」からじゃないですかね。

 

―理解。

 

川村 たとえば今、新型コロナウィルスが蔓延してますよね。ぼくらは日々、ニュースを見て、感染者の数字を見たり、識者の意見を聞いたり、政治家の会見を見たりしてますけど。

 

―ええ。

 

川村 そんなのだけでは、本当には理解できないと思うんです。でも、今のこの事態が「物語化」されたときに、はじめて「起こっていたのは、こういうことなのか」と腑に落ちる。

 

―つまり、物語とは、世界を理解するためのもの。

 

川村 『聖書』という「物語」は、その最たるものですよね。

 

こちらは画家の山口晃さん。

P419

―・・・今のお話ですと、作品の制作をつうじて、山口さんたちが「最後にたどり着いてしまう」のは、高い山のてっぺんではなく「本来の自分」であると……。

 

山口 自分の根っこみたいなものの形って、割と早くに固まると思うのですけど、その根に従った枝葉を繫らせるには実力も要るし、運任せのところもあると思います。それで、はじめは仕方なく見よう見まねで取り繕う。その場での社会性を装ってしまうということですね。でも、そんなものでは制作できない。

 ・・・

 自分の根っこから立ち上がるものなしに作品になんか向き合えないです。ですから、仮りそめのものを捨てて、根に従った枝葉を繁らせていく。自らの輪郭を取り戻す、とでもいうのでしょうかね。最近は、そんな気がするんです。以前は、少しでも、いわゆる「美術史」の端っこに連なる仕事を……とも思っていたんですけれど。

 ・・・

 そのために、偉大な先達を「踏まえる」こともありました。しかしながら、踏まえれば踏まえるほど、「この人たちは、いったい何をやってきたのだろう」ということが気になるようになって。

 ・・・

 考えれば考えるほど「ああ、なるほど。やむにやまれず『こうなっちゃう』部分から『目を逸らさない』ことを、みなさん、やってきたのか」と。

 

―つまり「こうなっちゃう」というのが「本来の自分」なわけですね。偉大な先達は、そこから、目を逸らさなかった。

 

山口 「自分らしく」とか「なりたい自分になる」とかとは真逆ですね。自分を表現しようなんてことではなく、表出してくるもの。その裂け目に「飛び込んでいく」とでもいうんでしょうか。ひとりぼっちになってしまいそうでも、おそれずに。

 ・・・

 双六の「あがり」みたいに「本来の自分」とやらがあるとは思いませんけど。内発する声に従い、己を十全に使うってことなんでしょうね。

 ・・・

 偉大な先達というのは、何よりまず「参考になる」じゃないですか。「ああ、ここにたどり着こうと思ったら、心の、身体の、このあたりを使うんだな」とか。・・・そうやって「偉大な先達をなぞる」ことは、あるところまでは「本来の自分を目指す」歩みと重なってくるんです。

 ・・・でも、あるところから「いや、まてよ」と。

 ・・・

 自分のやっていることは「先達のこしらえた『型』にすぎない」と気づきます。そうなってくると、そのまま進んだところで、いつまでたっても「本来の自分」にはたどり着かない。型に心が残る……というか。型に心を残してしまう……というか。偉大な先達の型を通じて「本来の自分」になるはずが、いつのまにか「先人の型そのもの」になってしまっている。

 ・・・それでは「他人の型に使われている」だけですよね。やっぱり「自分自身の型」を見つけなければ。そして「型」から逆算して自分自身を使えるようになれば、その「型」からも放たれてゆく。そういうことだと思います。