共感と距離感の練習

共感と距離感の練習

 このような感覚はどこに行ってしまったか?と、遠くを見るほどには年を重ねたな・・・など思いながら読みました。

 

P9

 本当は「わからない」からはじめるべきなのかもしれない。安易に共感するよりも、その方が安全だと思う。でも、スイッチのように共感を切ることはうまくできないのだった。私にとって、共感は「する」のではなく、「してしまう」ものだから。それは勝手に動いたり、動いてほしい時に微動だにしなかったりする。不具合だらけだ。それで無理やりスイッチを切ろうとすると、今度は誰も傷つけないけれどわかりあうこともないような距離感になってしまう。実際、暴力的になるよりはいいと思って距離をとりすぎてしまって、親しくなる機会を逃すことがよくある。

 共感も距離感もうまく使いこなせない。だからこそこだわってしまうのだろう。なんとか組み合わせて、練習しながら上手になっていきたい。混ざり合った世界と分離した世界を同時に生きるように。言葉にならないものと言葉を重ねて一つにするように。

 ・・・

「わからないけどわかるよ」。中途半端で、どっちつかずの言葉だと思う。でも、いつもそう思っている。「わかる」とは言えない。「わからない」とは言いたくない。その「あわい」を、中途半端を生きている。

 いつも自分のことを中途半端だと感じている。わかるともわからないとも、イエスともノーとも言い切れない。ああでもないこうでもないと明確な結論を出せずに、ぐるぐる考え続けている。

 だけどそれならせめて、ちゃんと中途半端でいたいと思う。答えを急がず、単純化せず、抱え続けていたいと思う。そのために、自分に問いかける。「考え続けている」という顔で思考を放棄していないか。たまには羽を休めてもいいけれど、そればかりになっていないか。多くの人が積み重ねてきた蓄積があり、どんな立場を取るべきか明白なものに対して「それぞれの正義」などと安易に相対化していないか。時間をかけて考えた言葉に固執して、別の重要な言葉を見過ごしていないか。揺らいでいるか。無防備でいるか。

 穏やかに見えていたあわいがうねりだす。不完全な力のせいで、どの波もきらきらと輝いて見える。不完全な力のせいで、どの波にも乗り出せない。

 居心地が悪い。でもこれはきっと、引き受ける価値のある居心地の悪さだ。

 

P49

 私は、男性のどんなところが好きだろう。どんな男性でいたいんだろう。

「これが良い男性性だ」と定義するのは難しい。私が決めることでもないし、理想像を設定すれば、結局そこを頂点にまた「とにかく上を目指していく」がはじまってしまいそうだから。

 そもそも「男性」というカテゴリー自体、「自分がそうだと感じている人」「男性ということになっていて、それでいい人」くらいのもので、「その人がどう思っているか」という、シンプルかつ重要な基準に基づく(女性や、その他の性がそうであるように)。その中にたくさんの異なる経験を持つ人が集っていて、それぞれに男性をやっている。多様で、一つに方向付けらるものでは決してない。

「良い男性性」の定義は難しい。でも、「あらゆる多様さを否定しないこと」くらいは言っていいのかもしれない。そういう男性が好きだし、自分もそうありたいなと思う。「男はこういうもの/こうでなければならない」とか決めつけない男性。どうしてそれを言ってはいけないのかを考えて、「女は」とか「ゲイは」とか、あらゆる属性に対しても決めつけることをしない男性。そうやって言葉や、言葉以外の力で支配しようとしない男性。

 今はまだ、あらゆる多様さは色んな場面で否定されている。それを問題だと捉えている男性が好きだし、自分もそうありたいなと思う。社会が今のままで良いと思っていない男性。男性があらゆる場面で有利になってしまうことを自覚していて、付与される力を公正さのために使おうとする男性。「男社会」が問題視される時、責められていると感情的にならずに、だけど我が身を振り返ることができる男性。

 そういう男性が増えていけば、上へ上へと方向づけられた力は次第に弱まっていく。右にも左にも下にも奥にも喜びがあること、そのすべてに優劣がないこと。誰もがそのことを理解し、実践している。そんな水平な世界で男性として男性を好きになるのは、どんな心地がするのだろう。