食べものまわりのエッセイ、楽しく読みました。
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その日、緊張したおももちでキジマさんは玄関の呼び鈴を押した。出版社に入って二年、ある老作家のお宅に原稿を取りに伺うという大役を任されたのである。
玄関先で身を固くしていると、ほどなく奥からいきなり本人が現れた。応接間に通されると、すでにテーブルの上に茶封筒が置かれている。「あらためてください」「では失礼いたします」。原稿の枚数も数え終わり、ではこれでと辞去しかけると声がかかった。
「食べていきなさい」
老作家はみずから運んできた盆からお重と湯呑みを預けると、部屋を出ていってしまった。キジマさんは広い応接間にぽつんとひとり残された。ふたを開けると鰻重である。箸を割って粛々と鰻重を片づけ、こうして初仕事をぶじに終えた。
もう三十年まえの話だけれど、あたし鰻重を食べるたびに、あのしんと静まり返った家の空気とか白いカバーの掛かった応接セットを思い出すとキジマさんは言う。それに鰻重を食べたの、あれがはじめてだったし。
そもそも鰻はとくべつな食べものだった。鰻屋さんの暖簾をくぐったのなんか、わたしだってずいぶんおとなになってからだ。鰻は、外で蒲焼きにこしらえたものを買ってきて、家で食べるものだった。
「暑いから今日は鰻にでもする?」
夕方ちかく、母がおもむろに言うとみな沸き立った。
「お、そりゃあうれしいな」
父が相好を崩す。今からかんがえれば、父と母のあいだではすでに了解がととのっていたのだろう。ふんわり焼けた鰻に箸を入れるところ、鼻先に香ばしい匂いが満ちるところ、白いごはんに茶色いたれが染みこんだところ、どんどん思い浮かべると、口いっぱいつばが溜まった。みなの期待を一身に背負って、母はいそいそと買い物かごを提げて出かける。
・・・
出前というものをまったく取らない家だったから、まず鰻屋に足を運んで蒲焼きを買い、母が四つの鰻丼に仕立てる。鰻丼のときだけ、ごていねいにふたがのせてあるのが御馳走気分を盛り上げた。
自分のうちの丼で食べているのに、よその味がした。夏のうち何度か食卓にのぼる鰻には、未知の世界をかいま見る興奮がいっしょについてきたのだった。
家で食べる外の味。それは、ふいに巻き起こった風がおだやかな水面を叩き、右に左に波紋の連鎖を広げる。日常に、うれしい風穴が開く。
たまに赤い顔をした父がぶら提げてくる握り鮨の折。モーニングすがたの父と、留袖を着た母が揃って出かけた結婚式の引き出物は、紅白の風呂敷に包まれた尾頭つきの鯛と赤飯。または、一尾まるごとのっかった鯛飯。折詰の杉の香りに華やかなにぎわいや晴れがましさがこもっていた。留袖からふだん着に着替えてほっとした様子の母が、自分に威勢をつけるように言う。
「じゃあお茶、淹れましょうか」
台所はきれいに片づいたままなのに、ふだん食べない味にありつく。こどものぶんざいで、お相伴にあずかるのである。うわあ、こんなおいしいものがあったのか!すっかり冷えきった鯛の塩焼きの硬さにさえ、奇妙な興奮を覚えた。・・・
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あればあったでうれしい。なければないで困りはしない。けれど、あるとなしとでは大違い。
それが小鉢である。
・・・
なめこおろし。つららいもといくらを和えたの。ぜんまいの炒め煮。にんじんのごま和え。菊花のおひたし。しらたきとたらこ炒め。ねぎぬた……季節の素材に、ぱっとひと手間くわえてこしらえた勢いがある。いま、この野菜がおいしいから。食べさせたいから。さっと手を伸ばし、台所でひとしごと。
その手間をさりげなく小鉢に盛りこむところに、そこはかとなく余裕がある。だからこちらにとっても、食べているときの止まり木、休憩場所になるのだ。気の抜ける相手が目のまえにある、それだけで安心する。まさに箸休め。小鉢は箸休めとも呼ぶ。
知り合いに、自他ともに認める「小鉢好き」の男がいる。自分で料理を選べる定食屋に行くと、ごはんと味噌汁以外は小鉢ばかり取りたがる。居酒屋ならまぐろ納豆、いくらおろし、小鉢に盛ったものばかり。枝豆にしても、小鉢に入っていればありがたみはぐっと増すと言う。
「放っておいてくれるから、気がらくなのよ」
これが彼の弁だ。刺身の盛り合わせとか揚げ出し豆腐とか、きんきの煮付けとか、ぐいっとうまいものは「なんとなく迫ってくる」。ところが小鉢ならば、時間が経っても冷めても、いつも様子が変わらない。
「だからね、急かされたり、ご機嫌を伺ったりする必要がないわけよ」
勝手気ままを許してくれるところが、たまらなく落ち着くのだという。・・・
