人類を前に進めたい

人類を前に進めたい チームラボと境界のない世界

 

チームラボを率いる猪子寿之さんの本を読みました。

 

P10

猪子 ・・・『花と人』は、じっとしている人の周辺には花がたくさん咲くし、走り回る人の周辺では花が散るという作品なんだよね。

 同じような作品をニューヨークでも展示したんだけど・・・、そのときのオープニングに人が殺到して、ギュウギュウ詰めになったんだよね。そうしたら、花が全部散っちゃった(笑)。

 でも、そのあとが面白くて、その場でみんな「ここに(人が)いすぎるんじゃないか」と話し出して、「私は前の部屋に戻る」「じゃあ、私は次の展示を観ておくよ」と言い合って、みるみる3分の1くらいの人数が減ったんですよ。そうしたら、隙間ができて花が咲き出して、みんな「おおー!」となって盛り上がったんだよね。

 これが面白いのは、ほかの人の振る舞いでアートが変化しているのを、第三者的に見て面白がってることなんだよ。インタラクティブというときに、みんな「自分の振る舞いで作品を変えること」を考えていると思う。でも、それってデジタルゲームに代表されるように、「自分と作品」の一対一関係になってしまう。そこには他者がいない。だけど、こういう作品をうまく設計すると、同じ空間にいる「自分と他者」の関係をポジティブに思える気がするんだよね。

 ・・・同じ空間にいるほかの人が作品の一部みたいになることがすごくいいと思うし、そうすることで同じ空間にいる人々同士の関係性をポジティブに変化させたいんだよね。

 ・・・

 たとえば、この考え方で都市をデジタルでアート空間にしたら、同じ都市に住む人同士が、すごくポジティブになるんじゃないかと思う。

 個人に何か影響を与えるだけじゃなくて、同じ空間にいる人の関係性が影響を受けていくんだよね。

 

宇野 面白いね。それこそが、チームラボと猪子寿之の考えるデジタルアートの可能性ということか。・・・チームラボ作品でたびたび用いられている、司令塔があるわけでも中心があるわけでもないにもかかわらず、いつの間にか参加するプレイヤーたちの調和がとれてしまうボトムアップの日本的なシステム。これって、日本文化論では「無責任の体系」と言われていて、旧日本軍の生んだ指導者のいない全体主義から、現代のテレビポピュリズムまで、どちらかというと悪いものとしてとらえられていたのだけど、チームラボはそれをポジティブなものに読み替えている、という議論を僕は展開したわけ。

 ・・・

 

猪子 ・・・『花と人』にしても周りに人がいるから、花が咲いたり散ったりして、より美しいものになるの。自分がインタラクションしたいというよりは、他者の存在まで含めて作品として鑑賞できることで、他者に対してポジティブになれる感じなんだよね。

 

宇野 ・・・これまでの人類は「他者の存在は人間にとって不快なもので、だからこそちゃんと受け止めるのが人間としての成熟だ」という議論をしてきたわけだよ。でも、猪子寿之は現代のテクノロジーと洗練された表現を使えば、他者の存在を快いものに転化できると信じている。理解もできないし、コントロールもできない他者が周囲にいることは、我慢して受け入れるものではなくて、むしろ「やさしく、うつくしい」ものにとらえ直せるんじゃないかと思っている。これはとても革新的な発想だと思うし、これによって人類はかなり前に進むよ。

 ・・・

猪子 おそらく昔は、他者は美しいと思われていたと思う。それこそ、棚田の水田なんて、他者が一生懸命田んぼをつくってくれてるから、自分のところに水が来るわけじゃん。まあ、この棚田は例としてわかりやすいだけで、基本的には社会が高度で複雑化するまでは、すべてがそうだったはずなんだよ。隣人の行為のおかげで自分が存在することは、かつてはもっと見えやすかったはずだと思う。

 

宇野 その美しさを現代人は忘れてしまった、と。・・・

 だけど、今後は棚田こそが人類にとって刺激的なアートになる。これからの情報技術の方向性は、人間の意識や自己決定ではなく、無意識や「運命」に干渉していくものになる。だから、チームラボのアートも運命論のレベルで世界を肯定したいというわけだね。もちろん、これは都市を捨てて里山に戻るべきだと言っているわけじゃない。むしろ、・・・現代の都市に、いかに棚田的なものを回復していくかということをアートの力でやっているわけだ。

 

猪子 だって、こんなに複雑に発展した現在の都市を誰も否定できないじゃん。今さら村に戻れ、とは言えないと思う。実際、都市がもしまるごとアートになったら人々の関係がすごく良くなると信じてるからね。

 


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