「うんこで救える命」という言葉に、え?!なんの本??と思わず手にとりました。
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はじめまして、石井洋介と申します。
僕は、ときどき「漫画の主人公みたいな人生ですね」と言われることがあります。不登校の末に偏差値30から独学で勉強を始め、医学部に入学し、医師になったからでしょう。
現在は医師として秋葉原にあるクリニックを共同で経営しながら、在宅医療や医療行政の仕事をし、医療のコンサルタントやヘルスケア事業のインキュベーションオフィスを運営したり、クリエイティブを専門とする大学院での研究を続けています。さらには、日本うんこ学会という怪しい名前の団体で会長職を務めながら、仲間たちと一緒に大腸がん早期発見を目指すスマホゲーム「うんコレ」を制作するなど、職場を限定せずにいくつもの場を飛び回り、自分の理想とする医療を実現するために動いています。
こう言うとかっこよく言い過ぎかもしれません。本当は、苦しみ、もがきながら自分の幸せを模索して毎日頑張っています。
今でこそ、「自由に生きられて幸せそうだね」と言われることも増えましたが、10代のころは自分なんていつ死んでもいい存在で、生きている意味なんてないと思っていました。複雑な家庭環境で育ち、高校1年生のときに潰瘍性大腸炎という病気を発症してからは、うんこを漏らしながら人生に絶望していました。
高校卒業後に病状が悪化し、大量出血をしてまさに命がけの大手術を経て奇跡の生還を果たすも、大腸を失い、フリーター・童貞・コミュ障・人工肛門と失うものは何もない「無敵の人」になってしまいました。安心できる居場所なんてどこにもなかったですし、自己肯定感なんて地の底まで落ちてしまい、そのままうんことともにトイレに流されてしまうような状況でした。
その後、インターネットで得た情報で人工肛門を閉鎖することができ、「残りの人生は人のために生きよう」と、まるで暗黒騎士からパラディンになるような大転換を迎えることになりました。自分を助けてくれた医師に憧れて医師を目指し、2~3年かかりましたが無事に医学部に入学できました。
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・・・自信のない僕に生きる力を与えてくれたのが、僕のことを信頼し好きになってくれた仲間たちでした。
仲間たちとチームでキャリアを築き上げていく中で、足りない能力が補われ、欠損していた自己肯定感も補われていったのです。
早く行きたければ、一人で行け。遠くに行きたければ、みんなで行け
アフリカに伝わることわざで、僕の一番好きな言葉です。
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「本当に死ぬ」という不安の中、人は、何を願うと思いますか?
どうせ大腸を全摘出するのだったらもっとおいしいものを食べておけばよかったとか、人工肛門になる前に、女の子とガンガンつき合っておけばよかったなどという考えもよぎりましたが、一番強く感じたのは、そういうことではありませんでした。
幼少期からの辛かった日々の記憶が次々によみがえり、そしてろくに高校にも行かず、無為な日々を過ごしたことを思い、「僕はなんて人生を無駄にしてきたのだろう、誰の役にも立たずに、ただただ灰になっていくのか。どうせ人は死ぬのだから、死ぬまでの間にもっと納得できる生き方をすればよかった」ということでした。
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たった数時間でしたが、死を間近に感じて本気で生きたいと思い、自分の無為な生き方を猛烈に後悔しました、そして、キリスト教の学校に行っていたくせに、まったく信じていなかった神様に祈るのです。
「神様、お願いします。もし助けてくれたら、残りの人生はすべて人のために、社会のために使います」
しみじみと思い起こすと、あのときの体験が、「命を救う」という今の仕事に、そして「社会課題を解決する」という、自分の課題意識につながっていると思うのです。
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考えてみれば、僕のこれまでの人生は、波乱に満ちていました。
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家庭環境も、経済的な面も、健康面も、学習環境も、リスクだらけでした。そして、多くの面で、社会的弱者でした。
しかし医師になってみて、このときの経験が、非常にプラスになっていると感じます。病気になるということは、身体的、あるいは精神的に弱るということです。僕は弱って心細くなっている患者さんの気持ちが、なんとなく分かります。傷の痛みもリアルに分かります。
死ぬ可能性がある病気にかかった人の気持ちも、人工肛門になる不安も実体験しました。本当は健康に悪いことなんかしたくないけれど、ついついしてしまう人の気持ちも、家族との縁が薄い人の心細さや、自分に自信がなく、捨て鉢になってしまう人の気持ちにもなんとなく共感できます。
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自分が大腸を失い、障害を負ってはじめて「障害ってなんだろう」と思いました。大腸はなくなってしまいましたが、それ以外は僕自身は特に何も変わっていませんでした。僕よりもっと重い障害を持っていても、僕の何倍もいきいきと生きている人もいて、改めて何をもって障害と言うのか悩みました。
自分を客観的に見て、何に障害があるかというと、社会に出るにあたって障害があるか、もっといえばお金を稼ぐにあたり障害があるかどうかが一番困っていることだと思ったのです。障害というのは、資本主義社会のルールのものさしで人を見ているんだと気がつきました。
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「誰かの足りない部分を補うことで居場所ができる人もいる。そういう足りないものと余っているものがうまくマッチしている状況が、本当にユニバーサルな状態なのだと思います」。誰が言ったか記憶が定かではないのですが、ニコニコ超会議2018内で「ダイバーシティー」をテーマにセッションした際に出た言葉です。
このセッションの中で、「『障害者に対して誰もが優しく温かく接する社会が誰にでも親切な障害者共生社会である』というのは、真の障害者の気持ちを理解していない」と聞きました。一方的にずっと与えられ続ける関係になってしまうと、障害者側は「申し訳ない」という気持ちになってしまうのです。確かに、僕自身患者として絶対安静でおむつ交換をされていた際に、一日に何度も便が出てしまうので看護師さんを呼ぶのが申し訳ないという気持ちになり、いつしか2~3回分溜めてから呼ぶようになったことを記憶しています。
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自分の弱みを見せて「できないから手伝ってほしい」という一面をもつことは、「なんでも手伝います」と一方的に貢献する立場だけでいるより、もっと良好にお互いのことを必要とし続けられるのだと思います。弱点は埋めるだけがすべてではありません。ときにはその弱点が誰かに役割を与えることになるかもしれないので、弱点のないスーパーマンを目指す前に、ほんの少し立ち止まって考えてみることをおすすめします。