全部があって一つのもの

随縁つらつら対談

 この辺りも印象に残りました。

 

こちらは声優・俳優の二木てるみさん

P222

釈 二木さんって「してもらった」「させていただいた」っておっしゃるでしょう。「ご縁があって」とか「させてもらうことができた」という言葉づかいが印象的です。浄土真宗は、宗派の伝統でそういう言葉づかいをするんですよ。「お念仏を称えさせていただく」「拝読させていただく」という言い方が伝統的にあるんです。・・・自分の力じゃなくて「ご縁」とか「おかげさま」とかで、させていただくことができたという、視点のひっくり返ったところがあるんです。「俺がやった」じゃなくて「させてただくことができた」という視点のひっくり返りと、縁に巡り合えた喜びを込めて使われているのです。二木さんはご本の中で子育てについて、全編通して、その言葉づかいで書いておられました。

 ・・・

二木 おかげさまって言うけれど、本当にその通りなんです。私の仕事の環境って、口移しで「おかあちゃん」って言ってもらって、それを真似て「おかあちゃん」って言う。私にそう言わせるために、いろんな人たちが力を尽くしてくれたんです。そこには母もいるし、監督、助監督、アシスタントさん、衣装さん、照明さん、小道具さん、大道具さん、それにカツラ屋さん……。役者でも、主役がいて、脇がいて、脇の脇がいて、やっと主役が立つんです。

釈 そんな中でずっと育ってこられた。

二木 そういう業界の中にどっぷり浸かりながら生きてきました。それに、舞台となると、お客さまがいなければ、成り立たないんです。見る人がいて初めてそこで出来上がる。全部があって一つのもの。そんな中で生きてきました。主役なんて不思議なもので、下手でも成り立つんです。それは、主役にさせていただいているのは、皆さまのおかげだからなんですよ。

釈 おかげさまが染みついているのですね。

二木 理屈じゃなくて身をもって学びましたから。細胞の一個一個に染みついている感じです。それに、母はよく「娘であっても預かりもので、風邪を引かすわけにはいかない」と言っていました。遊びたいけれど、ケガをするわけにいかないんです。場面にはつながりというものがあって、あるシーンの二~三分後のシーンが一週間後の撮影ということがあります。私がケガをしたら、シーンがつながらない。皆さんに迷惑がかかるんです。

釈 お母さまも本当によく支えてくださったのでしょうね。

二木 本当に。だから、私が子育てをすることになって、悩んだり、いろんなことで試行錯誤したりしましたが、それも、子どもがダダをこねてくれたからで、子どもがいなかったらそういう経験はできなかった、と素直に思えたのです。

 

 こちらは僧侶の天岸淨圓さん

P244

釈 宗教はもっと動的なもので、Q&Aみたいに決まりきったものじゃなく、ダイナミックに生き生きとしたものであるはずです。生活に根ざしている、というのはそういうことですよね。

天岸 そういえば、以前、おもしろい経験をしました。知人の息子さんが会社で不本意な状況になって、「『歎異抄』を読みたい。参考書がほしい」と言う。「参考書は要らんわ」「何で?」「読んでもわかるかいな」「そしたら、どうやって読んだらええのん?」と言うから、「お母さんに仏教辞典を借りて、国語辞典と古語辞典、漢和辞典を持って読むとええ。参考書にするなら、本願寺の赤い歎異抄の本があるから、あれがええわ」と。

釈 赤い本のどこがよいのですか?

天岸 よけいなことが書いてないから(笑)。しばらくして会ったら、読んだと言う。「言うてた通りや、さっぱりわからん」。つまり、彼は読んだんです。読まなかった人は「ありがたかった」と言う。それは嘘です(笑)。「読んでどやった?」「もうええねん」「何で?」「初っぱなに『老少善悪をえらばん』と書いてあったやろ。あれでええねん。僕は善悪をえらんで、善ばっかりほしがってた。そうでもない、って書いてあったから、これでええねん」と。これでええんですね。彼は読んだんです。だからケリがついた。参考書には詳しい解説が書いてあるけれども、そんな言葉は響かないんです。響かないことを書いて、響いたような錯覚に陥っているのは私らです。響く言葉が響かんようになってる。私らの言葉がじゃまをするんです。そうではなくて、あの揺り動かすような言葉ですよ。「善いことばっかり取って悪いことを捨てたい」という常識の中にあって、「老少善悪はえらばない」と書いてあった。「ああ、そうかえらばないのか」と腑に落ちた。お聖教とはこういうものなんですね。

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 読んでわかるのではなく、言葉がさらーっと解きほぐしていく、そんな言葉を残してくださっているんですね。