高倉健インタヴューズ

高倉健インタヴューズ

 著者の他の本がとても面白かったので、こちらも読んでみました。

 高倉健さん、こんな風にすごい方だったんだと驚きました。

 

P122

 宇崎竜童は『駅 STATION』(一九八一年)以来、高倉健と何度か共演している。ロケ現場で彼がまず驚いたのが、高倉が人をほめるときの観察力とその大局的な視点だった。

「『四十七人の刺客』(九四年)を撮ったときのことです。僕は堀部安兵衛の役でした。浅野家の家臣が街道で荷車を押していたら、敵の刺客とも思える飛脚が近づいてくるシーンがあった。そこにいた侍役の俳優たちはいっせいに身構える演技をするわけです。その際、大石内蔵助を演じていた高倉さんは離れた場所で休憩していたのですが、どうやら、撮影シーンを見守っていたらしい。次に会ったとき、ぽつりとおっしゃったのです。『宇崎さん、あのシーンのとき、刀の鯉口を切ってましたね』……」

 彼は役者専門の人ではない。しかし、時代劇に出るにあたって、二カ月間、居合いの道場に通い、刀の抜き方、納め方、武士の所作を学んだ。だから、刺客に備えたシーンで彼は本物の武士のように咄嗟に刀の柄に手をやる、鯉口を切ることができたのだ。

「鯉口を切るなんて動作はフィルムには映りません。それでも高倉さんはちゃんと見ていて、そのことを指摘してくれました。しかも、その意味は僕をほめるというだけではないんです。……あなたが努力していることは必ず誰かが見ている。だから、手を抜かないでみんなでいい映画をつくろうってことを暗示されていたんです。ですから、ほめられたのは僕だけじゃありません。高倉さんは他の役者にもスタッフにも、その人が人知れず努力をしているところをちゃんと見ていて、なおかつほめる。すると作品にかかわる全員の士気が高まる」

 ・・・

―それは高倉健の背後で宇崎竜童が号泣するシーンでのことだ。最初のテイクは高倉健のアップである。カメラは高倉に焦点をあてていたから、背後に控える宇崎は画面に映っていない。つまり、まだ号泣しなくともいいシチュエーションである。ところが彼は抑制のきいたセリフを耳にして、感極まって涙を流してしまった。それほど高倉健の声は感情を揺さぶるものだった。

「その後は昼休みになったのですが、僕は動揺していました。次は僕のアップです。カメラに向かって涙を流さなきゃならない。しかし、高倉さんの出番はおしまい。セリフを聞くことなく、感情をこめて泣かなきゃならない。いやー、まいりました。果たして号泣できるのだろうか。胸がいっぱいで、とても昼メシどころじゃなかったんですよ。・・・」

 昼食の弁当を前にしてうなっていた彼のもとに高倉健から使いが来た。「一緒に食べよう」との誘いである。彼は嫌ともいえず、食卓を共にしたが、胸の中は次のシーンのことでいっぱい……。気持ちはすっかり沈みこんでいた。「どうしました」と問われ、宇崎はつい愚痴をこぼしてしまった。

「さっきの高倉さんのセリフ、録音部が再生してくれるといいのですが……」

「いえ、それは無理でしょう。ハリウッドならやれます。しかし、日本の映画現場ではそんな準備はしていません」

 彼は高倉健の答えを聞いてますます気持ちが暗くなった。だが、やらなくてはならない……。

「本番になりました。覚悟を決めてカメラを見つめました。頭の中ではさっき聞いた高倉さんのセリフを思い出し、イメージをふくらませた。監督の市川(崑)さんがヨーイ、スタートと言ったんです。次の瞬間、心の中で、よし、やった、勝ったと叫びました。腹の奥から、なんというか涙の塊が上がってきたんです。よし、思う存分泣いてやる……。そのときでした。照明部の人の声がした。『すみませーん、太陽が隠れました。少し休憩』。えーっと思いましたよ。せっかく泣けそうだったのに……。

 太陽が現れて、ふたたび、監督がヨーイと言った。よかった。涙の塊はまだ胸のところにとどまっていた。シメシメ、と。するともう一度、『すみませーん』……。

 いや、もう駄目だ、三回目は無理だ、もう一度やってみて、泣けなかったら、恥をしのんで目薬を頼もうとそこまで追い込まれました。そして三度目です。ヨーイ、スタートの後に、あの声が、あの方の声が後ろから聞こえてきたんです。

『殿が云われた……、殿は一〇歳であった……。米はあるのか。この殿のやさしいお心づかいに胸をうたれた』

 高倉さんは自分の出番が終わったのに、僕が演技するのをそっと見守っていたんです。しかも、涙が出そうもないと直感してセリフをしゃべってくれた……」

 セリフを語った後、高倉健はさっと姿を消してしまったという。さらに後のこと、お礼を述べたら、「宇崎さん、この映画、もうずいぶんフィートが回ってましたから」と答えただけだったという。

―あなたのためだけじゃない、自分も出演している映画のためにやったことです。あなたはそんなに恐縮しなくていいですよ。高倉健はそんな意味のことを言ったのである。

「どうですか。そんな人いないでしょう。大物俳優ならば自分の出番だけ終えたら、宿に帰って休憩していればいいんじゃないですか。あるいは取り巻きとワイワイガヤガヤやっていればいいんじゃないですか。高倉さんは特別です。一般の社会でもあんな人はいません」

 私が宇崎竜童に踏み込んで尋ねたのは次のようなことだ。

「では、私たちは高倉健の言葉や心の使い方をどう真似すればいいのか」と。

 彼の答えはシンプルだった。

「高倉さんにいただいたものは返せません。返したいけれど返せないほど大きなものをいただいている。できるとすればたったひとつ。私が後輩や新人に高倉さんからもらったものと同じものを渡すこと。その人のいいところを見つけて、大局的にほめてあげること。そんなことを気づかせてくれるのは高倉さんだけです」

 

P183

 ・・・どんなジャンルの人であれ、超一流になったら自分を大きく見せようとはしない。・・・等身大のままで、向き合った相手にきらめきを感じさせるのがスターの真骨頂だろう。

 高倉健も自分を大きく見せようとはしない。・・・

 ・・・

 そんな彼のカッコつけない真心がそのまま表れているインタビューがある。・・・

 話の内容は亡くなった元妻、江利チエミについてのものだ。

 ・・・

「結婚(五九年)したてのころ、生まれてはじめて買った新車、ベンツの230SLが届いたとき、ぼく待ってられずに保税倉庫まで行って見せてもらいました。まだサビ止めのグリスがついた状態だった。これがドイツからおれのために送られてきたのかと思ったら、思わず足が震えましたね。やっと自宅に届いた夜、当時住んでいた世田谷の等々力の街角であいつと待ち合わせして、夜中の一時ごろでしたか、乗せて走ったんです。そしたら、途中でおろしてくれって言うんです。あなたが走ってるところが見たいから、って。で、ぼくがやつの目の前を行ったり来たり走るんです。そしたらあいつ拍手してくれてるんですよ。かっこいいよ!って。可愛いなあと思いました。この女のためなら、なんでもできるなあと」

 インタビューを読んで、「可愛いなあ」と感じる対象は妻だけではない。夜中に妻の前を何度も車で走る夫もまた可愛い。無邪気なふたりの姿が目の前に浮かぶ。まるで映画のワンシーンのような実話で、カッコつけない真心の例とはこういうものだ。