あの人物にこんなエピソードがあったんだ、と、へぇ~が多い本でした。
P35
所得倍増計画―。高度成長期をひた走った日本を、そんな言葉でけん引した首相がかつていた。1960年に内閣総理大臣になった池田勇人である。
池田は大蔵省(現・財務省)の官僚を経て、戦後に政治家に転身。初当選で吉田茂に大蔵大臣に抜擢されている。吉田の側近として地歩を固め、首相にまで上り詰めた。
不景気の今、再び池田に注目が集まっているが、官僚時代に難病を患い、療養生活を余儀なくされたことはあまり知られていない。
「どうも手足がむずがゆい。昨夜、虫にでも食われたのかもしれない」
症状は妻へのそんな一言から始まった。1930年、池田が30歳のときのことである。最初は、膝のあたりに小豆ほどの小さな水ぶくれがあった程度だったが、やがて全身に広がっていく。全身の水ぶくれは膨張したのちに、潰れて出血。新たな水ぶくれを発生させるという地獄のループを生んだ。
病名は「落葉状天疱瘡」。いわゆる難病であり、手の打ちようがなかった。池田は前年に宇都宮税務署長に就任したばかりだったが、仕事どころではない。かゆみで30分も熟睡することが難しくなった池田。苛立ちから癇癪を起しては人生に絶望した。池田を献身的に支えたのが、結婚したばかりの妻の直子だ。
「10年、15年先には必ず全快します。私の力で全快させてみせます」
妻は池田にそう約束したが、過酷な看病にもかかわらず自分は弱音を吐いてはいけないというプレッシャーがのしかかる。闘病生活が2年に及んだ頃、力尽きたのは妻のほうだった。狭心症で急逝している。池田はのちに追悼集『忍ぶ草』の扉でこう綴った。
「医薬の療法なく、ほとんど絶望と診断された私を、一年半余り寝食を忘れて死の直前まで看護し励ましてくれた直子の忍耐強さには敬服のほかなく……」
悲しみに暮れる池田だったが、病魔は容赦なく、猛威をふるい続けた。介護は妻から母へと変わる。ミイラのように全身を白いガーゼで包みながらの壮絶な闘病生活は否が応でも近所の目を引く。「池田のぼんぼんは腐っとる」と陰口を叩かれて、伝染病だとあらぬ噂に苦しめられた。
この地獄が終わるとすれば、それは症状が顔面や舌に現れたときだ。それは、すなわち死を意味している。しかし、池田の症状は首の下ギリギリのところでとどまり続けた。池田は闘病4年の末、奇跡的に回復する。
仕事に復帰したものの、官僚としては終わった存在だったといってよい。出世からはすっかり遅れて、派閥からも弾かれている。池田はのちに振り返る。
「省内で重要会議があっても、全然、俺を呼んでくれない。いつもポツンととり残される。こん畜生と思った」
だが、どんでん返しが起きる。戦後GHQにより公職追放、いわゆるパージが行われ、重職にいた人物は失脚。出世の遅さが幸いし、池田は追放を免れて、大きな飛躍を遂げる。終わったかに見えた人生は、まだ始まってもいなかった。
P39
あのアブが引き抜きに応じた……。ウォルト・ディズニーは電話でそう聞かされてもなお、信じることができなかった。
電話の相手はパット・パワーズ。映画の配給を行っており、その好条件からウォルトが契約に踏み切った人物だ。だが、ミッキー・マウスが活躍する『蒸気船ウィリー』がヒットしても、送金もろくにしない。そのうえ、ディズニー社の中心的アニメーターのアブ・アイワークスと勝手に契約したというではないか。
ウォルトが18歳で無謀にも初めて会社を立ち上げたとき、声をかけたのが、元同僚のアブだった。「アリス」「オズワルド」、そして「ミッキー・マウス」……。愛すべきキャラクターを作り上げるため、アブとともに汗をかいてきた。ウォルトが「とても信じられない」とつぶやくと、パワーズはこう交渉した。
「契約更新さえしてくれれば、アブを残すこともできるんだよ」
パワーズは映画の収益を曖昧にしたまま、ウォルトと契約更新にふみきろうと目論んでいた。ウォルトは気持ちを立て直して、はっきりとこう言った。
「いえ、結構です。アブがそういう気持ちならば、一緒に働くことはできません」
ウォルトは契約の更新を拒否。新しい配給会社を探すがなかなか見つからない。
実は、ウォルトが裏切られたのは初めてではない。『しあわせウサギのオズワルド』がヒットしたときも、興行者の画策により従業員の大半が好待遇で引き抜かれ、人気キャラクターの権利まで奪われていた。ウォルトはこんな言葉を残す。
「順風満帆のときは、いつなんどきなにかがだめになりはしないかとひやひやした」
しかし、確かな技術があれば道は必ず拓ける。ウォルトはコロンビア映画と契約を締結。そしてアニメ作品のカラー化に挑むことを決意する。ウォルトは兄ロイの反対を押し切って、これまで作った分を全部破棄させた。そしてカラー化に挑んだ結果、『花と木』と『三匹の子ぶた』で2年連続のアカデミー賞を受賞する。
息つく間もなく、ウォルトは次にアニメの長編化を試みる。莫大な費用がかかるため、兄のロイがまたも反対するも、言い出したら聞かないのがウォルトである。社運を賭けた、世界初の長編アニメ『白雪姫』は大きなヒットとなる。
「なにか新しいことを始めないと、私は死んでしまう」
新しい挑戦には逆風がつきものだ。それでも信頼したパートナーに裏切られること以上の困難はなかったし、裏切りを経験したことで今そばにいてくれる人の大切さを知ることもできる。ウォルトにはハラハラしながらも見守ってくれる兄ロイの存在があった。心配性の兄も弟の実力を見直したことだろう。
だが、このときのロイはまだ知る由もなかった。この有言実行の弟が、さらに途方もない夢を抱くようになることを……。
ウォルトがディズニーランドを開園したのは1955年7月17日、53歳のときのことだ。マスコミに「絶対に失敗する」と言われながらの新たな旅立ちだった。